2日前の記事で、備前国庁跡を紹介したが、国庁に赴任した国司にとって、令制国内の神社を巡って参拝することも重要な行事の一つであった。
しかし、国内の神社の数は多い。平安時代になると、国庁の近くに国中の神社の祭神を合祀した神社が出来た。これを総社という。
総社に一度参れば、国中の神社を参拝したのと同じこととなり、巡拝行事を省略できる。平安時代にはこれが制度化されたようだ。
備前国総社宮は、備前国庁跡から北に約1キロメートル行った、岡山市北区祇園にある。
備前国総社宮には、大己貴命、須勢理毘売命、神祇官八神(八柱の天皇の守護神)と備前国128柱の祭神が合祀されている。
創建は平安時代と言われており、中世の神仏習合、岡山藩による寛文の神社整理を経て、現在まで信仰され続けて来た。
ところが平成4年に社殿が放火され、随神門以外の本殿・幣殿・拝殿・釣殿が焼失してしまった。
焼失した備前国総社宮の社殿は、寛文六年(1666年)の岡山藩主池田光政の領内神社整理の際に建てられたものだったと見られているが、江戸時代後期に再建されたものだったという説もある。
今の備前国総社宮にある建物は、随神門以外は平成4年以降に再建されたものである。
参拝して見ると、拝殿も本殿も再建されたばかりでまだ新しい建物であった。本殿の石垣が所々黒ずんでいるが、火災の痕跡だろうか。
ところで、ネット上で平成4年以前の古い社殿の写真を探したが、出てこなかった。平成4年は、インターネットがまだ一般に普及していない時代である。私がインターネットという言葉を知ったのは、平成7年ころだったと思う。ネットの世界では、平成4年は太古の時代だ。
神仏習合の時代には、備前国総社宮には、三体の仏像が祀られていたそうだ。
その内木造十一面観音坐像、木造観音坐像は近くの脇田山安養寺に、別の木造観音坐像は近くの薬師堂に預けられた。おそらく、明治の神仏分離令が出た時のことだろう。
安養寺は、天台宗の寺院で、備前国総社宮から東に行った岡山市中区賞田にある。報恩大師が創建した備前四十八ヵ寺の一つである。
安養寺に行ってみたが、仏像は拝観できなかった。境内に伝教大師童形像があった。
最澄にしろ、空海にしろ、聖徳太子にしろ、童形の像や絵画が祀られるのは何故だろう。これら偉人の幼いころの無垢な信仰心を目に見える形にするためだろうか。
私が備前国総社宮を訪れた時、境内を神職や地域の若い方々が清掃していた。地域に大事にされている神社であると実感した。
放火されて古い社殿は焼失してしまったが、大切なのは神仏を大事にしようとする人々の心がけであると感じた。