コロナ特措法に基づく兵庫県の緊急事態宣言が明けたので、久々に史跡巡りに出かけた。
今日は岡山市最大の墓地である東山墓地に眠る3名の人物の墓を紹介する。
東山墓地は、岡山市街の東にある平井山の上に広がる。地名で言えば、岡山市中区平井1丁目になる。
非常に広大な墓地で、見渡す限り墓ばかりである。
ここには、幕末から近代にかけて、岡山が輩出した、或いは岡山で活躍した人たちが多く眠っている。
私は山川出版社の「歴史散歩」シリーズを杖にして史跡巡りを続けているが、東山墓地に数ある墓の中でも、「岡山県の歴史散歩」に載っている墓を訪ねることにする。
最初に訪ねたのは、上代淑(かじろよし)の墓である。
今まで史跡巡りをする中で、広い墓地の中を墓を捜し歩いて難儀したことがある。特に真夏の炎天下の墓地巡りは苦痛である。「歴史散歩」シリーズの文章だけを頼りに探しても、なかなか目当ての墓に辿り着けない。
いつも決め手になるのは、やはりスマートフォンでの検索である。先人がネット上にアップした墓の写真の背景の山や木の形、背後に写っている建物の屋根の色や形と現地の風景を見比べながら、目当ての墓の位置を特定していく。
そうやって苦労の果てに目当ての墓の前に立った時の達成感たるや、なかなかのものである。
歴史上の偉人や著名人の墓参りをする人を掃苔家と言うが、最近では墓マイラーとも呼ばれている。
私も、後続の墓マイラー達が目当ての墓を探しやすくするため、ヒントとなる写真と文章を残しておくことにする。
東山墓地の中心には、東山斎場の建物が建っている。東山斎場の南側には駐車場があり、その駐車場の東側の細い道を南に下れば、上代淑の墓がある。
上の写真の、上代淑の墓石の真後ろに写っている建物が、東山斎場である。
上代淑は、松山藩士上代知新の娘として、愛媛県松山市にて明治4年(1871年)に出生した。
父の上代知新が大阪で新島襄と出会い、洗礼を受けてキリスト教徒となった時、淑も洗礼を受けた。
淑は、梅花女学校で教育を受けて教師となり、岡山市の山陽女学校に赴任した。
淑は、生涯を同校での女子教育に捧げた。山陽高等女学校の校長を何と51年務め、岡山の女子教育に貢献した実績のため、岡山市名誉市民となった。昭和34年没。享年89。
淑の墓の隣には、父親の知新の墓もある。上代家の墓石には、十字架が浮き彫りにされている。
そういえば、この辺りの墓石には、十字架が刻まれているものが多い。岡山のキリスト教徒がこの一角に墓を多く建てたのだろうか。
上代家の墓の東隣にあるのが、炭谷小梅の墓である。
炭谷小梅は、嘉永三年(1850年)に岡山城下に生まれた。岡山県の教育・衛生の近代化に努めた中川横太郎の愛人となった。中川がキリスト教の布教に熱心だったので、その影響を受けて受洗した。
炭谷小梅は、受洗後キリスト教の布教に努めたが、明治20年(1887年)に中川横太郎と離別し、石井十次の孤児院事業に協力した。
石井十次については、丁度1年前の令和2年3月7日の当ブログ「岡山孤児院発祥地 安仁神社 紅岸寺跡」の記事で紹介した。岡山市孤児院を開設した医師である。
炭谷小梅は、石井夫妻の孤児院事業を助け、「岡山孤児院の母」と呼ばれたという。大正9年没。享年69。この墓は岡山孤児院の有志が建てたが、いつ建てられた墓かは分からない。
炭谷小梅の墓は、長い間存在が忘れ去られていた。隣の上代淑の墓は、今でも山陽女子高等学校の生徒が清掃活動に訪れている。平成11年、上代淑の墓の掃除に訪れた女子生徒が、隣にある墓石が炭谷小梅の墓であることに気づいた。炭谷小梅の墓の「発見」である。
上代淑が没したのは、炭谷小梅から遅れること39年である。同じキリスト教徒で、子供の教育に携わった上代淑が、孤児の救済に尽くした炭谷小梅の墓の隣に眠ることを選んだのかも知れない。
大西祝は、元治元年(1864年)に岡山藩士木全正脩の息子として生まれ、母方の実家大西家に養子に入った。
大西は、同志社英学校に入学し、新島襄の下で受洗し、キリスト教徒となった。明治22年(1889年)、帝国大学文科大学哲学科(現東京大学文学部)を首席で卒業し、東京専門学校(現早稲田大学)、東京高等師範学校(現筑波大学)で教鞭を取った。
大西祝は、日本哲学の父と呼ばれた。明治33年没。享年36。京都帝国大学文科大学の設立のために奔走している途中であった。
まあとんでもない才人だ。
大西祝は、同じキリスト教徒である内村鑑三が不敬事件で第一高等学校の教職を追われた時、内村鑑三の味方に立った。
内村が、第一高等学校の教育勅語奉読式の時に、勅語に書かれた明治天皇宸筆の御名に対し最敬礼をしなかったことが不敬とされた事件である。
事の是非は別にして、当時は不敬を犯せば非難囂々となって職を辞さなければ収拾がつかなくなるような社会情勢であった。
そんな世間一般の常識の中、非難された内村の味方に立った大西祝は、単なる才人というだけでなく、気骨のある人物だったのだろう。
大西の墓石に文学博士と誇らかに刻まれているが、当時博士号を取るのは至難の業で、その分野の日本有数の権威でなければ取れなかった。
森鷗外は医学博士、文学博士の両方を持っていて、それを名刺に態々刷らせている。
ただし鷗外は、死別とともに生前の交際や権威は全て意味をなさなくなると分かっていたので、遺言により墓石には自分の名前以外は彫らせなかった。
大西祝の墓の隣には、妹の大西絹の墓がある。大西絹は、山陽女学校の舎監を務めた人である。上代淑とも縁のあった人物だ。
今日紹介した3名の人物については、私自身今まで何も知らなかった。墓参りをきっかけに、調べてみて3名の事績を初めて知った。
「歴史散歩」シリーズに載っている史跡は、興味のあるなしに関せず全て訪れるという当ブログの方針のおかげで、上代淑の父の名ではないが、新たに知ることが多い。
今まで興味を持たなかった人物の墓を訪れるのも、新たな発見があっていいものだが、やはり自分が関心を持つ人物の墓に行ってみたい。