旧三蟠港

 沖田神社から百間川を南下すると、百間川は児島湾に流れ入る。

 百間川河口と児島湾の間には、百間川河口水門が設置されている。

f:id:sogensyooku:20210807193844j:plain

百間川河口水門

 今設置されている水門は、昭和と平成に造られたものである。

 この水門を過ぎれば、海である。百間川河口水門の上は、道路が通っており、橋としても利用されている。

f:id:sogensyooku:20210807194001j:plain

児島湾

f:id:sogensyooku:20210807194142j:plain

百間川河口水門

 百間川河口水門は、海水の逆流と百間川の氾濫を防ぐという二つの重要な役割を持っている。

 私が訪れた時は、水門が閉まっていた。潮位が川の水位より高いので、門を閉めて海水の逆流を防いでいるのである。

 逆に川の水位の方が海水面より高くなると、水門を開けて河川水を排水する。

 写真の水門は、昭和に築かれたものだが、実は江戸時代に百間川が造られた際に、今の水門と同じ役割を果たす潮止堤と石の樋門が築かれた。これも津田永忠が施工したものだろう。

 江戸時代築造の水門は、昭和38年の昭和水門完成まで、補修を経て約270年に渡って使われ続けていた。

f:id:sogensyooku:20210807195223j:plain

江戸から明治の水門(百間川河口水門のホームページより)

 この江戸時代から使われ続けた水門は、世界文化遺産の候補にもなったそうだ。

 私は岡山藩の土木建築家津田永忠が整備した土木建築物群は、いずれ世界文化遺産になると思っているが、やはりその一部がかつて候補に上がっていたのだ。

 さて、水門のある辺りから西に行き、旭川沿いにある旧三蟠港に行った。今の三蟠港は、小さな漁港である。

f:id:sogensyooku:20210807195733j:plain

三蟠港

 今の三蟠港のすぐ脇に、旧三蟠港を記念する石碑が建っている。地名では岡山市中区江並になる。

f:id:sogensyooku:20210807195830j:plain

旧三蟠港の石碑

f:id:sogensyooku:20210807195905j:plain

 旧三蟠港は、旭川河口に位置していた。旭川を下って来た人や物が、ここで蒸気船に乗り換えて児島湾に出たわけだ。その逆もあった。

 鉄道が整備されるまでの明治時代の交通の主力は、河川を進む船だった。

 旧三蟠港は、江戸時代末期から昭和40年代まで、牛窓、日生、宇野方面との間を結ぶ巡航船が寄港し、賑わった。

 明治時代末期には、高松への連絡船が就航した。

f:id:sogensyooku:20210807200435j:plain

旧三蟠港の賑わい

 しかし明治43年(1910年)に宇野線が開通し、同時に宇野港も開港した。高松への交通は宇野港が担うことになった。旧三蟠港はそれから徐々に衰退していった。

 明治18年(1885年)、松方デフレによる農村の疲弊を視察し、農村を激励するために、明治天皇が全国を行幸した。明治天皇は、岡山にはこの旧三蟠港から上陸し、旭川の土手を北上した。

f:id:sogensyooku:20210807201602j:plain

明治天皇上陸記念碑

f:id:sogensyooku:20210807201647j:plain

 明治天皇行幸で訪れた場所や建物を聖蹟として保存する運動が、天皇崩御後の大正時代から各地で湧き興った。
 地方の有志が、明治天皇が訪れた場所に石碑を建て、国はそれを史跡に指定した。

 昭和23年、GHQにより、明治天皇聖蹟は、過剰な天皇崇拝の象徴として史跡指定が解除された。

 しかし、石碑は破壊されずに残された。明治天皇の記念碑は日本各地に残されている。

 明治天皇は、崩御後も大帝として国民に懐かしまれ尊崇されていた。明治天皇が当時の日本人の精神的支柱だったことを証明するものが日本各地に残されている。これは、日本人の精神史の1ページを示すものである。

 旧三蟠港の痕跡は、平成24~25年に建設された新堤防の下に埋没した。

 かつて繁栄した港も、今や跡形もない。

f:id:sogensyooku:20210807203931j:plain

堤防下に埋没した旧三蟠港

f:id:sogensyooku:20210807204042j:plain

新堤防

 平成に完成した堤防上に登ると、対岸の児島半島の山々がよく見える。

f:id:sogensyooku:20210807204152j:plain

児島連山

f:id:sogensyooku:20210807204256j:plain

 上の写真の中央奥にある山が、児島連山を代表する金甲山である。標高403メートル。児島連山の最高峰である。
 頂上まで、ワインディングロードが続いている。スイフトスポーツで駆け上がりたかったが、時間の制約があって諦めた。

 旭川を遡ると、明治時代にオランダ人ムルデルが工法を伝えたケレップ水制群がある。

f:id:sogensyooku:20210807204804j:plain

旭川のケレップ水制

 ケレップ水制とは、堤防に対し垂直に設置されたT字の石積みの設備のことである。

 川の水量が減った際に、水が川床一杯に広がるのを防ぎ、水位を保って船の運行を円滑にするための設備だ。

 川の水位が上がっている時は、水面下に没する。

f:id:sogensyooku:20210807205158j:plain

水没したケレップ水制

 ケレップ水制は、今も現役の設備として稼働している。

f:id:sogensyooku:20210807205434j:plain

水面に顔を出したケレップ水制

f:id:sogensyooku:20210807205521j:plain

 こんなT字の石積みが、何基も旭川沿いに設置されている。

 見方を変えれば、幻想的な風景だ。

 今日は、水門や港、水制群を紹介した。土木建築物を築いて、生活を豊かにしようとする人間の叡智には、畏敬する気持ちを覚える。