東山墓地から岡山の市街地に入っていく。
夢二郷土美術館は、岡山が生んだ詩画人・竹久夢二の作品を収蔵展示する美術館である。
竹久夢二は、明治17年(1884年)に岡山県邑久郡邑久町で生まれた。邑久町本庄にある夢二の生家は、現在夢二郷土美術館分館として保存公開されている。昨年1月15日の当ブログ「横尾山静円寺 竹久夢二生家」の記事で紹介した。
夢二は、画家になるため、17歳の時に家出をして東京に出た。その後早稲田実業学校で学ぶ。
童話雑誌や少女雑誌の挿絵を描き始め、その傍ら抒情詩も書いた。夢二の描いた作品は、多くが、というよりほぼ全部が若い女性を描いた美人画である。
夢二が描いた抒情的な美人画は、中原淳一、蕗谷虹児、内藤ルネといった後続の挿絵画家、イラストレーターに受け継がれた。
夢二は大正ロマンの時代を形成した文化人の一人と言ってよいと思う。
夢二郷土美術館は、夢二の作品や資料3000点以上を所蔵し、その内常時100点以上を展示している。
私が訪れた時は、夢二郷土館の創設者で初代館長だった松田基(もとい)のコレクションを展示していた。松田基は、西大寺鉄道(現両備ホールディングス)の社長を務めた人物で、西大寺鉄道後楽園駅の跡地に夢二郷土美術館をオープンさせた。
展示作品は、当然ながら写真撮影出来なかった。一抹の哀しさを感じさせる抒情的な作品が並んでいた。
ところで夢二郷土美術館の名物が、美術館お庭番の黒の助という黒猫である。
黒の助は、写真撮影可能な第五展示室のガラスケースの中でゆったりしていた。
ガラスケースの中で眠っている黒猫を見て、最初はぬいぐるみかと思ったが、近寄るとこちらを見て目を光らせた。
確か夢二の作品に、黒猫を抱いた女の絵があったと思うが、その絵から抜け出てきたような猫だった。
夢二郷土美術館の中庭には立派な枝垂桜がある。見ると既に花が散っている。いつ開花したのだろう。満開の時は、さぞかし美しかったことだろう。
中庭を通ると、アートカフェ夢二というカフェ&ミュージアムがある。
店内には、夢二の版画作品などが展示販売されている。また夢二や黒の助に関する商品も販売されている。
中には、ポーランドの画家ラデック・プレディゲェルが、竹久夢二に着想を得て描いた染付の絵皿などもあった。
美術作品は、国境や人種を容易に超えて影響を与える。これもその一例だろう。
夢二郷土美術館を出て蓬莱橋を渡ると、岡山後楽園の外苑前に至る。岡山後楽園から岡山市街に入るには、鶴見橋を渡らねばならない。
この鶴見橋の東詰に、旭川に面して竹久夢二の抒情詩「宵待草」を刻んだ詩碑が建っている。
竹久夢二が27歳だった明治43年(1910年)夏、元妻と息子を連れて房総半島犬吠埼を訪れた時に、海岸で出会った19歳の女性長谷川カタと短い逢瀬を重ねた。
しかし夢二の恋は実らず、カタとは別れ別れとなった。翌年同じ海岸を訪れた夢二は、カタが別の男性と結婚したことを知り、もはやいくら待っても現れぬ女性を思い、実らぬ恋の悩ましさを宵待草に例えて、
まてど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬさうな
という詩にした。
この詩に多忠亮が曲を付け、日本中で歌われるようになった。
また、岡山後楽園外苑には、竹久夢二の友人で、播州飾磨出身の詩人有本芳水の詩碑が建っている。
この詩碑は、フランスの世界的な建築家ル・コルビジェに学んだ日本の建築家前川國男の作品でもある。
ここには、有本の「小とりよ」という詩が刻まれている。
小鳥よ小鳥 うらやまし 生まれ故郷の 恋しさよ
小とりとなりて 春の日を 声はりあげて うたひたや
有本芳水は、晩年を夫人の生家に近い岡山の地で過ごした。有本芳水の詩集の挿絵を竹久夢二が描いている。有本も大正ロマンの立役者の一人だ。
大正時代は、明治と昭和の狭間の夢のような時代で、古く暗い日本とモダンな西洋文化が合わさった時代だ。
その後の日本は、年々モダンな要素が強くなり、高度成長期の到来と共に普段着として着物を着る人が激減し、文化状況は今の日本に近づいた。
竹久夢二も、当時は時代をぶち壊す先端の芸術を描いているつもりだったろうが、時が経つと夢二の作品はその時代を象徴する芸術になってしまった。芸術作品の評価も、時の経過を俟たないと定まらないようだ。