旭川を渡って岡山市北区法界院にある金剛山遍照寺法界院を訪れた。
法界院は、真言宗の寺院である。法界院の前身の西谷山妙塔寺は、報恩大師が創建した備前四十八ヵ寺の一つとされる。妙塔寺は戦国時代に焼失し、天正九年(1581年)に現在地に移り、法界院と称するようになった。
丁度この辺りを支配していた宇喜多直家が織田信長の傘下に入ったころだ。
御本尊は聖観音立像である。聖観音立像が、妙塔寺から法界院に伝えられたのだろう。
この寺院は、江戸時代には100年に1度の頻度で火災に襲われた。最後の火災は、文久年間(1861~1864年)に発生した。
この火災で、仁王門、中門以外の建物が焼失してしまった。
仁王門は、創建時からのものだが、嘉永年間(1848~1854年)に修復再建された。重層八脚門の立派な建築である。
中の仁王像は、怖い表情をした、お腹が膨らんだ異形の像だ。
仁王門の第一層の天井には、鳳凰、麒麟、獏、孔雀の図が描かれている。
仁王門を潜って、中門への石段を登る。石段両脇には、「南無大師遍照金剛」と書かれた五色の幟が立てられている。
弘法大師の懐の中に来たかのようだ。
中門から境内に入ると、正面に大きな本堂が控えている。
本堂前の石段の脇に、岡山市指定重要文化財の道讃禅定門石灯篭が建っている。
凝灰岩製で慶長三年(1598年)の造立である。中台に胎蔵界大日如来の種子が刻まれ、下の棹部に銘文が彫られている。桃山時代の銘文が入った石灯篭は、岡山県下でも稀で、貴重な石造文化財だ。
法界院の御本尊の木造聖観音立像は、秘仏である。元々は本堂須弥壇に祀られていたが、今はコンクリート製の収蔵庫で大切に保管されている。
聖観音立像は、平安時代の作と言われている。度重なる火災の都度、本堂から持ち出され、現代まで伝えられた。国指定重要文化財である。
収蔵庫の正面には、厄除大師という堂があり、弘法大師像が祀られている。
厨子が僅かに開けられ、隙間から弘法大師がお顔を出している。厨子をわずかにしか開けていないのは演出だろうか。
本堂は、安政二年(1855年)に建立された。文久年間に火災に遭っているので、今の本堂はその後の再建であろう。
本堂の須弥壇には、新しい観音立像と両脇侍像の持国天像、多聞天像が祀られている。両脇侍像は、平安時代後期の作であるという。
持国天、多聞天像は、元々中門の両側に祀られていたという。お蔭で文久年間の火災の際も焼け残った。
本堂の屋根瓦には、金の文字があるが、山号の金剛山から来ているそうだ。立派な屋根瓦だ。
本堂と接続して建っているのが大師堂である。
大師堂は、明治13年の再建である。中に祀られている弘法大師像は、昭和35年に奈良の仏師宮沢甲輔が制作した乾漆の像である。
真っ黒の像で、影のように見える。むしろこちらの方が存在感がある。
境内に建つ梵鐘楼は、昭和13年の築である。
梵鐘楼に下がる梵鐘は、明治から昭和にかけて活躍した工芸作家・歌人の香取秀真(ほつま)の作である。
香取秀真は、昭和9年に帝室技芸員に選ばれ、昭和28年に工芸家として初めて文化勲章を授与された。
この梵鐘は、観世音菩薩の浄土である補陀落山の世界を図絵模様にしている。
この梵鐘も遠い将来、昭和時代の梵鐘の銘品として評価される時が来るだろう。
法界院は、前身の妙塔寺の時代から何度も火災に遭って来たが、御本尊は千年近くの時を越えて現代に伝わってきた。
信仰の対象になるものは、人々に大切にされ、災害や戦乱を越えて人々を支え続ける。