天正十年(1582年)、児島郡八浜村で、児島半島制圧を目論む毛利軍と、織田家の勢力下に入っていた宇喜多軍が衝突した。八浜合戦である。
このころには、備前の雄宇喜多氏は、織田軍中国方面司令・羽柴秀吉の傘下に入り、西の毛利と敵対していたのである。
八浜合戦での宇喜多軍の大将は、宇喜多与太郎基家であった。基家は、毛利軍の流れ弾のために足を負傷し、竹やぶに隠れたが、村人が毛利軍に基家の居場所を教えたため、討ち取られた。
与太郎の死後、村人は与太郎に詫び、その供養のため、遺体をこの地に手厚く葬ったという。その塚が与太郎塚と呼ばれている。
与太郎塚の脇には、今はもう閉業していると思われる土産物屋があった。かつては与太郎せんべいが売られていたようだ。
与太郎塚の正面には、お地蔵様の石像を入れた祠がある。そのすぐ脇に石造五輪塔がある。
足の負傷がもとで討ち死にした与太郎は、今では地元民から与太郎様と呼ばれ、足の疾病治癒に霊験のある神様として祀られている。
私には幸い足の病はないが、いつまでも健康に歩いて史跡巡りが出来るよう、与太郎様に祈った。
与太郎塚の脇には、宇喜多基家の業績を刻んだ石碑が建っている。
その人の生涯を、短い漢文に要約して伝える墓誌というものは、その人の人生のエキスを格調高く後世に伝えるもので、重要なものである。
次に訪れたのは、与太郎塚から西に行ったところにある硯井天満宮である。この神社も岡山県玉野市八浜町大崎にある。
延喜元年(901年)、藤原時平の讒言により、大宰権帥に左遷された菅原道真公は、大宰府に向かう途中、この八浜に立ち寄った。
当時この地はまだ干潟であったようだ。
菅公が訪れた際、干潮になると、干上がった砂の窪みから、水が噴き出ている所があった。
菅公が水を口に含むと、不思議なことに海の中なのに、塩辛くない清水であった。
菅公が柏手を打つと、金砂とともに水が湧き出た。
菅公は感銘を受け、その水を硯の水に使い、「海ならず たたえる水の 底までも 清きこころを 月ぞ照らさん」という歌を書いて村人に与えた。
自らの冤罪を訴えた歌である。
後になって村人は、この人物が天神様(菅公)であったことを知り、水の湧くところに井戸を造り、近くの丘の上に鳥居を建て、天神様を祀った。
これが硯井天満宮の由来である。
硯井天満宮から県道405号線を挟んで北側に、菅公が掬って飲んだ清水の跡とされる硯井がある。
今でも書道を学ぶ人たちが、遠くからこの硯井を訪れ、水を汲んでいくそうだ。柏手を打つと、今でも金砂が清水とともに湧き上がって来るという。
私も幼いころ書道を習ったが、ほとんど上達せずに終わった。しかし、下手なりに心を潜めて文字を書くという体験は、幼い身には貴重である。
文字を書くことを忽せにしないことを、天神様は遠い昔から今に至るまで、我々に教えて下さっているようだ。