岡山市 東山墓地 中編

 大西祝の墓から東側は、ちょっとした高台になっている。

 その高台の上にあるのが、池田長発(ながおき)の墓である。

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池田長発墓

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池田長発墓誌

 池田長発は、天保八年(1837年)に幕府直参旗本家の池田長休の四男として江戸にて出生した。

 長発は、備中国井原の領主池田長溥の養子となった。幕府直轄の学問所昌平黌(しょうへいこう)にて学び抜群の成績をおさめた。

 長発は、文久三年(1863年)には、満26歳で外国と交渉を行う外国奉行に抜擢される。

 当時の幕府は、横浜港を含む5港を開港していたが、国内で攘夷派が巻き返しつつあった。長発が外国奉行になって直ぐに、攘夷派浪士が横浜でフランス人士官を殺害する井土ヶ谷事件が起こった。

 幕府はフランスに謝罪すると共に、攘夷派の怒りを鎮めるためにフランスに横浜港の鎖港を求めることとし、パリに遣欧使節団を派遣した。その団長に長発が抜擢された。

 遣欧使節団は、途中エジプトに立ち寄り、ピラミッドを見学した。長発らは初めてピラミッドを見た日本人となった。

 さて、遣欧使節団はパリでフランスと交渉し謝罪と賠償を行ったが、結局横浜港閉鎖の条件は飲ませることが出来なかった。

 長発はヨーロッパ文明が圧倒的に進んでいることを実感して、日本に帰ってから、幕府に対しむしろ開国することを建白した。

 このため、長発は職を解かれ、蟄居を命ぜられた。

 しかし慶応三年(1867年)、長発は幕府から赦され、勝海舟と共に幕府海軍奉行に就任した。だが健康不良のため数か月で職を辞し、領地の井原にて隠棲した。

 長発は、明治12年(1879年)、井原にて没した。享年42。

 長発の墓の隣には、長発の妻蜂谷氏の墓石がある。南側には、長発の子孫の墓石が並んでいる。

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池田長春、長世墓

 池田長発は非常に優秀な人物だったろうが、このような人物がいても幕府の滅亡は防げなかった。

 攘夷すべしという世論を、幕府の力では抑えられなかったのである。

 今から考えれば、外国人に日本の土を踏ませないという攘夷の思想は、日本の発展を阻害する有害な思想としか考えられない。当時の幕閣の有識者もそれは分かっていたが、開国策を正面から実行すると井伊直弼のように暗殺されたりするのでなかなか出来なかった。

 後世から見れば、どう考えても誤った思想であっても、その時代には世の中に大きな影響力を持つことがある。こういう事は、現代にも将来にも起こり得ることである。

 さて、次に手代木勝任(てしろぎかつとう)の墓を訪れた。勝任の墓は、東山斎場のすぐ西側の高台の上のブロック塀に囲まれた一角にある。

 手代木勝任は、文久九年(1826年)、会津に生まれた。

 勝任は、幕末の会津藩主で京都守護職となった松平容保重臣であった。京都奉行、京都所司代新選組を指揮し、京都を跋扈する攘夷派を取り締まった人物である。

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手代木勝任夫婦の墓

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手代木勝任墓誌

 会津戦争では、会津若松城に立て籠もって官軍に抵抗した。会津若松城が陥落したとき城から脱出し、以後は東北諸藩の降伏交渉を行った。

 勝任は、戊辰戦争後、明治政府により蟄居を命ぜられたが、有為の人物だったのだろう、明治5年には赦され、明治政府に仕官することとなった。

 明治11年には岡山区長となり、明治37年、岡山にて没した。享年78。

 なお、勝任は死に臨んで、実弟京都見廻組隊長だった佐々木只三郎坂本龍馬を暗殺したと告白した。

 次に野村小三郎尚赫(しょうかく)の墓を訪れた。野村小三郎は、岡山藩士野村尚志の子として生まれた。

 小三郎の生年は不詳だが、おそらく嘉永七年(1855年)である。明治3年(1870年)、数え年16歳にして陸軍省兵学寮の留学生に抜擢され、フランスに留学し、軍事学を学んだ。

 しかし明治9年(1876年)、留学先のフランス・アメリーレバンにて22歳で病没した。

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野村尚赫墓

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 私は東山墓地を訪れる前に、ある程度目的の墓石の位置を知っておこうと、ネットで検索したが、この野村尚赫の墓を探すのに非常に苦労した方の記事を目にした。

 私も現地で発見するまで少し苦労したので、参考までに尚赫の墓の位置を書いておく。

 東山斎場の東側に、広い南北道がある。この南北道を北に向かって歩き始めると、すぐ右手に、南北道側に向いている野村尚赫の墓が見える。ただし尚赫の墓の手前に別の新しい墓があるので、少し分かりにくい。

 尚赫の墓の側には、父尚志の墓もある。

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野村尚志の墓

 尚赫の墓石の側面には、「明治九年六月二十六日於仏蘭西国卒享年二十有二」と彫られている。

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尚赫墓石側面の銘

 実は、尚赫の墓は、死没したフランス・アメリーレバンにもあるそうだ。尚赫がもし日本に帰ってきていたら、日本陸軍を支える人物になっていただろう。返す返すも残念である。

 尚赫の墓の隣には、阿井千賀之墓と刻まれた墓石がある。すぐ隣にあるので、尚赫と何らかの所縁のある人物なのだと思われるが、今のところ何人だか分かっていないそうだ。尚赫の母親の名でもないらしい。今となっては、もはや野村家の子孫もこの人が誰だったか知らないだろう。
 プルーストの「失われた時を求めて」ではないが、大いなる時の力は、あらゆるものを風化させていく。
 死んで100年もしたら、誰からも思い出されることもなくなる人生、生ある間は、せいぜい思い切り生きるべきではないかと思う。