百間川 一の荒手 二の荒手

 岡山市街の中心部を流れる旭川

 古来から、洪水や氾濫のため、人々を悩ませてきた川だ。

 江戸時代になって、最も被害が大きかった旭川の洪水は、承応三年(1654年)に起こった。岡山城下の死者156人、破損家屋1,455軒を数えた。被害の甚大さに、藩主池田光政は悲嘆に沈んだ。

 岡山藩儒熊沢蕃山は、洪水を防ぐため、「川除の法」を考案した。旭川が増水した時に、旭川の水を逃がすための放水路を作るという考えである。

 このアイデアを実現したのが、岡山藩の誇る大土木建築家、津田永忠である。

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荒手のイメージ(国土交通省ホームページから)

 津田永忠は、人工放水路百間川を建設した。しかし、旭川の水を百間川に逃がすだけでは、土砂が百間川に流れ込んで下流まで至り、今度は百間川下流に甚大な被害が出る。

 そこで考案されたのが、越流堤(荒手)である。国土交通省のホームページの図が一番分かり易かったので、ここに掲載する。

 荒手とは、水量が増えた時に敢えて水を越流させ、水に混ざった土砂を堰き止めるための堤防である。

 永忠は、百間川に3つの荒手を築いた。旭川が増水し、水量が一の荒手の越流部を越える水位まで上昇すると、水が百間川に流れ込み始める。

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一の荒手空撮写真

 百間川には土砂が混ざった水が入り込むが、それを下流の二の荒手、三の荒手で堰き止め、土砂を沈殿させ、水だけを越流させる。

 こうすることで、洪水の勢いが弱まり、百間川下流に土砂が流れるのを防ぐことができる。

 また旭川の水を百間川に逃がすことで、旭川下流岡山城下町の洪水被害を防ぐことが出来る。

 貞享三年(1686年)には、百間川と三つの荒手が完成したという。

 三の荒手は、明治時代の洪水で崩壊し、流されてしまったが、驚くべきことに一の荒手と二の荒手の機構は現在も残っていて、平成30年7月の西日本豪雨水害でも機能して、岡山市街を洪水から守ったという。

 私は、スイフトスポーツを駐車して、旭川河畔を歩き、第一の荒手に近付いた。

 旭川百間川を隔てる「背割堤」という堤防があるが、水を逃がすためにその背割堤が低くなった部分を越流部という。

 この越流部と、背割堤の端を守るために出来た巻石部という石積みの機構が、一の荒手と呼ばれる。

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一の荒手

 一の荒手と二の荒手は、平成後半に補強工事を受けた。上の写真中央がコンクリートで補修された越流部で、手前と奥の石積みが巻石部(亀の甲)である。一の荒手の左側が百間川で、右側が旭川である。旭川増水時は、この上を濁流が越えていくわけだ。

 巻石部の石は、津田永忠が施工した当時の石が使用されているが、石の下をコンクリートで補強している。

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一の荒手巻石部

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石積みの状況

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 巻石部(亀の甲)は、かつて当ブログで紹介した、岡山県備前市日生町大多府島の元禄防波堤や、閑谷学校石塀と同じ、亀の甲のような形をした石積みである。津田永忠の石積み建設物の特徴を表している。

 空石積みという、蒲鉾型に盛った土の上に緊密に石を組む石の積み方で、非常に頑強であり、完成した貞享三年(1686年)から補強工事を受けた平成30年ころまで、完成から330年近く洪水に耐えて崩れなかった。

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空石積み

 平成に入り、この貴重な江戸時代の土木遺産を保存するだけでなく、現役の設備として使い続けるために、補強工事が行われ、石積みの周囲をコンクリートで補強した。これを練石積みという。

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練石積み

 こうして、津田永忠が施工した亀の甲は、コンクリートで補強され、これからも旭川百間川の洪水被害を防ぐ設備として使われ続けることとなった。

 さて、百間川にかかる竹田橋のすぐ下流にあるのが、二の荒手である。

 二の荒手は、幅百間(約180メートル)で設計された。百間川の名称は、二の荒手の幅から来ている。

 この二の荒手も平成後半に補強工事を受けた。

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二の荒手補強工事の図

 二の荒手は、百間川に架かる竹田橋上から全貌を見下ろすことが出来る。

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二の荒手の全容

 途中草に覆われているが、上の写真の右下から左上にかけて伸びている石積みが、二の荒手である。右側が百間川下流である。

 二の荒手の右岸側の高水敷部は、コンクリート補強せず、江戸時代の空石積みのまま保存されている。

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高水敷部

 川の中央付近の流水部は、石積みがコンクリートで補強されている。

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流水部

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 そして、石積みが途切れる切欠部は、コンクリートで底が補修されている。水量が少ない時は、切欠部を水が流れていき、土砂は石積みで堰き止められるのだろう。

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切欠部

 また、二の荒手の左岸側には、亀の甲形の石積みが、コンクリートで補強されて保存されている。

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二の荒手左岸側

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左岸側の亀の甲

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 河川敷に下りて見ると、切欠部の両端の石積みは、コンクリート補強しておらず、昔のまま石が積まれている様子だった。

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切欠部の石積み

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 津田永忠が江戸時代初期に建設した百間川、一の荒手、二の荒手は、今後も岡山市街と岡山平野を洪水被害から守り続けるだろう。

 私は今まで当ブログで、津田永忠が建設した岡山藩池田家和意谷墓所閑谷学校、元禄防波堤、田原井堰、田原用水、神崎川分水樋門を紹介してきた。

 洪水を防ぎ、農業用水を確保し、児島湾を干拓して広大な田を作り、岡山藩の農業生産量を飛躍的に増大させ、領民の生活を豊かにした土木工事の数々は、日本の歴史上誇るべき遺産である。

 しかもその遺産が、300年以上たった現在も現役の設備として使用されているのが素晴らしい。

 武士と農民を平等に見る儒者熊沢藩山の思想と、それを藩政に生かして領民に教育を与え、豊かにした藩主池田光政、綱政親子の治績、そしてその思想を技術面で実現した津田永忠の土木建築物。

 これら岡山藩が築いて現代に残したものは、将来必ずや世界文化遺産に登録されるべき偉大な事績である。

 私のブログの発信力などたかが知れているので、国や岡山県には是非ともこの偉大な遺産の魅力を発信して頂きたいものである。