常山城跡

 硯井天満宮の参拝を終え、県道405号線を西に走ると、行く手に児島富士の別名のある常山が見えてくる。

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常山

 常山は、標高約307メートルの低山である。この常山の山頂一帯に常山城跡がある。

 常山城跡は、山頂の本丸を中心に合計14の曲輪で構成された連郭式城郭である。

 常山は、JR常山駅のすぐ裏にある山だが、頂上付近まで自動車路が通っている。麓から徒歩で登ることをせずに、横着して車で山頂付近まで上がった。

 しかしこの道が車1台がようやく通れる広さの道で、ひやひやしながら登って行った。

 山頂近くの駐車場に車をとめ、常山城跡の案内板を見る。

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常山城跡縄張図

  駐車場から、曲輪の一つ、青木丸に登る階段を見上げた。そして城跡の縄張りに入った。

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青木丸への階段

 常山城は、明応元年(1492年)ころ、地元豪族の上野氏が築城したとされている。

 まだ児島が島だったころ、常山城は、本土との間の海峡を抑える要衝だったようだ。

 天文二十三年(1554年)、常山城主上野隆徳は、備中松山城の城主三村元親の娘鶴姫を嫁に迎え、同盟関係となる。

 天正二年(1574年)、三村元親が毛利氏から離れ織田氏についた。上野隆徳も親類の三村側についた。

 天正三年(1575年)、備中松山城は毛利氏に攻略され、三村元親は自刃した。

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青木丸

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天神丸の石仏

 同年6月4日から、常山城も毛利氏に攻撃された。常山合戦である。

 6月7日、毛利氏の軍勢が本丸直下の二の丸にまで押し寄せた時、上野隆徳の妻鶴姫以下34名の侍女を含む83名が敵軍に突入し、果敢に戦った。

 女軍は奮戦したが、次第に討ち取られ、鶴姫は本丸に戻って自害、城主隆徳も自刃した。城は落ちた。

 二の丸跡には、昭和12年に城主一族と女軍を弔うため、40基の供養塔が建てられた。古そうに見える供養塔だが、案外最近建てられたものなのだ。

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女軍の墓

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城主と鶴姫の供養塔

 供養塔の近くに昭和12年に建てられた常山女軍之碑があるが、銘文を読むと、三村元親の娘だった鶴姫は、かなり勇猛な女性で、城の最期に至って、甲冑と鉄巻で身を固め、長刀を持ち、太刀を帯びて敵陣に突入したという。

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常山女軍之碑

 この石碑が建てられた昭和12年4月は、支那事変発生の直前である。非常時に勇敢に戦った女性を称える石碑は、当時の世相を表わしている。

 供養塔に手を合わせ、二の丸から本丸に登る。

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二の丸から本丸への階段

 本丸に上がると、急に視界が開け、眺望が良くなる。

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本丸跡

 本丸跡には、城主上野隆徳の顕彰碑や、上野隆徳が自刃した址とされる腹切岩がある。

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主上野隆徳公碑

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腹切岩

 本丸跡には、鉄筋コンクリート製の展望台がある。登って四囲を眺めると、これが絶景だった。

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展望台

 まず東には、金甲山などの児島連山が見え、麓の干拓された広大な田園が眺められる。

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常山の東側の眺め

 北を見ると、遥か遠くに岡山市街が見え、その手前には広大な干拓地が広がる。

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常山の北の眺め

 パッチワークのように広がる田圃の広がりは本当に美しい。これらの広大な耕作地が、江戸時代初期の岡山藩主池田忠雄、光政、綱政の時代に人工的に築かれたものだというのが信じ難い。

 南西を眺めると、遠くに霞む瀬戸大橋が見える。

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霞む瀬戸大橋の眺め

 更に南東を見ると、瀬戸内海の対岸の讃岐が見え、高松市街が遠望できる。

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対岸の高松市

 四国にもう少しで手の届くところまで来たと感じる。

 本丸から一段下りた兵庫丸からは、本丸を囲む石垣を見ることが出来る。

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兵庫丸

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石垣

 常山城は、毛利氏の支配下に入った後、信長側に寝返った宇喜多氏の支配下に入り、宇喜多氏の家臣の戸川秀安が城主となった。

 今残る常山城の遺構は、この戸川秀安が築いたものらしい。

 宇喜多氏が関ケ原の戦いで敗れて、小早川秀秋岡山城主となってからも、常山城は残された。

 常山城が最終的に廃城となったのは、岡山藩初代藩主池田忠継の時であった。

 現代に残る日本の有名な城は、江戸時代に建てられたものがほとんどで、実戦を経験していないが、戦国の山城というものは、この常山城跡のように、壮絶な戦いを経験した後に廃城となったものが多い。

 いずれ、天守を持った立派な平時の城よりも、戦時の山城跡の方が人気を得る時が来るのではないかと予想する。