日本城郭協会が、日本100名城というものを定めているが、私は今までの史跡巡りで、その内赤穂城、姫路城、明石城、津山城を訪れている。
岡山城は、私が訪れた5つ目の日本100名城に選定されたお城になる。
岡山城の天守は、戦後に鉄筋コンクリートで再建されたものだが、それでも眺めれば立派なものである。
岡山後楽園から旭川にかかる月見橋を渡って岡山城に近づく。天守の眺めは、月見橋からの眺めが最も良いと思う。
岡山城天守は、地形に合わせて不整形となっている。黒塗りの下見板を貼っていたことから、烏城の名がある。姫路城の別名白鷺城と好対照である。
大永年間(1521~1528年)に、在地の小領主金光氏が、今の本丸の東側にあった石山に城を築いた。これが岡山城の前身の石山城である。
備前国邑久郡から興った宇喜多直家が、金光宗高を滅ぼし、天正元年(1573年)に石山城に入城した。直家は、石山城を改修する。
天正十年(1583年)、直家の跡を継いだ秀家は、天正十八年(1590年)に本丸を石山から現在地に移して岡山城と改名し、旭川の川筋を付け替えるなど、大改修を行う。
秀家は、天守の建築に取り掛かった。慶長二年(1597年)に、岡山城天守が竣工する。
秀家が築いた岡山城天守は、中国地方の従来の城には見られなかった、高石垣で囲まれ、金箔押しの瓦を掲げた、三層六階の高層天守であった。
関ケ原の合戦後、宇喜多家が取り潰しとなり、小早川秀秋が岡山城主となったが、跡継ぎがなく2年で絶家となる。その後は岡山藩主池田家の居城となった。
小早川氏の時代も、池田氏の時代も、城に改修が加えられ、石垣の範囲は拡大した。
城の北側に位置する廊下門の北側に立つと、間近に天守を眺めることができる。
岡山城の天守は、昭和6年に国宝に指定されたが、昭和20年の岡山空襲で焼失した。その後、昭和41年に、鉄筋コンクリートで焼失前の姿に復元された。
岡山城の建物で、建築当時のものが現存しているのは、月見櫓と西手櫓のみである。それ以外の建物は、全て昭和41年に再建されたものである。
岡山城本丸の北側の出入口である廊下門は、中の段にあった藩庁の表書院と、本段に建つ天守を結ぶ廊下の役割を果たしていた。
この廊下門も、昭和41年に鉄筋コンクリートで再建されたものである。
廊下門西側の石垣は、1620年代に池田忠雄(ただかつ)が築いたものである。
石垣の上には、池田忠雄の時代に建てられた月見櫓が建っている。上の写真の月見櫓の手前には、かつて小納戸櫓が建っていた。
月見櫓は、表書院の西北隅に建てられた隅櫓で、望楼の役割の他、武器や食料の貯蔵所にも当てられた。
月見櫓下の石垣の隅は、直方体の割石を交互に積んだ算木積みという方法で積まれている。これにより、石垣全体の強度が格段に上がっている。
廊下門を潜って石段を登り、中の段に上る。
中の段(城内)から見た月見櫓は、三層の層塔型をしている。
月見櫓は、城外に向いた北側と西側には石落としがあり、漆喰で塗り固められるなど、戦う城の様相だが、城内に面した南東側は、2階に雨戸を備えた手摺付きの縁側があり、内側に明かり障子を立てるなど、御殿仕様となっていて、月見や四季の眺めを楽しむ建物という一面を持つ。
月見櫓は、岡山城築城当時から残る貴重な櫓として、国指定重要文化財となっている。
月見櫓の東側には、非常用の食料の貯蔵庫として使われた穴蔵がある。
香川県豊島産の凝灰岩で築かれており、元は屋根があったのではないかと推測されている。
宇喜多秀家が築いた岡山城天守が残っていれば、日本有数の国宝天守として、岡山県の至宝となっていたことだろう。空襲で焼けたのは返す返すも残念だが、月見櫓が残っていたことだけでも多とすべきか。