静泰院の見学を終え、児島湾締切堤防の上を通って児島半島に上陸した。
児島半島は、古代は児島と言う島だったが、浅瀬の干拓が進み、今では地続きの半島となっている。
先ず訪れたのは、児島半島の北東端にある小串(こぐし)港である。地名では、岡山市南区小串にある。
小串の地は、児島湾の入口を丁度扼する位置にある。宇喜多直家が岡山城を築城した時、海からの攻撃に備える要地とされた。
小串には、江戸時代には岡山藩の米蔵が置かれ、旭川流域の福島や、吉井川流域の西大寺などから高瀬舟が米を積んで往来し、ここで瀬戸内海航路の廻船に米を積み替えた。
上の写真の右手に三角屋根の工場のような建物があるが、その奥に木に覆われた小高い丘がある。
この丘が、幕末に異国船に対抗するための砲台が置かれた小串砲台跡である。
小串砲台は、文久三年(1863年)6月18日に起工され、同年10月下旬に完成した。器材庫、弾薬庫、陣屋が置かれたという。
この丘の麓に、高明院という真言宗の寺院がある。
この高明院を右側に回る細い道から、寺院裏の小串砲台跡のある丘に登ってみた。しかし、雑草が生い茂って、それらしい場所に行き当たらなかった。
途中、石垣に使われていた石らしきものが転がっていた。
奥に進むと、先ほどの工場の屋根を見下ろせる場所まで来た。
確かにここからなら、眼下の外国船を手に取るように把握できる。
児島湾に外国船が侵入したという記録は知らない。幕末に外国船と本格的な戦闘を行ったのは、長州藩と薩摩藩だが、この二藩が外国と実際に戦ってみて、攘夷が不可能なのを悟り、外国と手を組んで武装を強化して倒幕に進んだのは皮肉な話だ。
さて、小串砲台跡から次なる目的地塩竈神社に向かう途中、玉野市上山坂の荻野独園顕彰碑を訪れた。
県道217号線を南下し、ゴルフ場を横切る峠道に差し掛かると、道路東側にある石碑が目に入る。
荻野独園は、文政二年(1819年)に今の児島郡下山坂村に生まれた。13歳で出家し、儒学を学んだ後、京都相国寺の大拙承演について臨済禅を学び、その道統を継いだ。
明治2年に京都相国寺の126世管長となり、明治6年には、曹洞宗、臨済宗、黄檗宗の三宗の総管長に就任した。
相国寺は、伊藤若冲の「動植綵絵」を所有していたが、荻野独園は、明治12年に宮内省の内命により、皇室に「動植綵絵」を献上した。
独園は、皇室から下賜された金1万円を、廃仏毀釈以来窮乏していた寺院を回復させる資金に充てた。
経歴からして、独園はかなりの傑僧だったと思われる。それにしても、廃仏毀釈は、日本文化に大きな打撃を与えたものだ。
児島郡味野村の野﨑武左衛門は、江戸時代後期に塩田開発で財を成した人物である。
武左衛門は、文政十二年(1829年)に味野村に塩田を開き、天保十二年(1841年)に沼、山田、西田井地、東田井地、梶岡、胸上の浅瀬を堰き止めて塩田を造った。塩田は、武左衛門の名を取って、東野﨑浜と呼ばれた。
東野﨑浜では、年十万石の塩が生産されたという。
今の東野﨑浜は、塩田としての役割を終え、太陽光発電施設になろうとしている。
塩竈神社は、天保九年(1838年)に、武左衛門が陸奥一宮鹽竈神社を勧請したもので、祭神は塩土老翁神である。
明治15年、武左衛門の孫、武吉郎の代に、東野﨑浜は冠水し、塩田は大被害を受けた。
武吉郎はこれを克服し、翌年塩で賞をもらった。これに励みを得た武吉郎は、塩竈神社境内に、父祖の事績を偲んで、東野﨑塩田の碑を建てた。
境内には、塩田で作業する人に時を知らせた鐘楼の跡があった。
奥に行くと社殿がある。実は、この塩竈神社の近くに、武左衛門が開業したナイカイ塩業の胸上工場がある。
私が参拝していると、ナイカイ塩業の作業服を着た若い社員の方が神社にやってきて、祠の供え物を交換していた。
どうやらこの神社は、神社本庁ではなく、ナイカイ塩業が管理しているようだ。民間企業が管理する神社というのも、面白いものだ。
拝殿は、天保年間に建てられたものだが、拝殿の彫刻が独特だ。
一枚の板に彫られた龍の彫刻が唐破風の下にぶら下がっている。こういう造りは見たことがない。
本殿は、オーソドックスな一間社流造だ。
塩竈神社の北側には、海が細く入り込んでいるが、塩田に海水を取り入れる樋門の跡があった。
昔の製塩作業は、大変な重労働だっただろう。
今のナイカイ塩業は、イオン交換樹脂膜製塩法によって食塩を作っているそうだ。
日本には、「むすび」という信仰がある。記紀神話で最初に出てくる神様も、高皇産霊(たかみむすび)神、神皇産霊(かむむすび)神である。これらの神様は、生成の霊力(むすびの力)を司る神とされている。
今の言葉で言えば、化学反応で物が新しく生み出される力を神格化したと言える。
思えば、日本が誇るモノづくりや素材産業を、これらの神々が見守っていると言える。