岡山市北区後楽園にある岡山藩が築いた庭園、後楽園は、国指定特別名勝であり、水戸の偕楽園、金沢の兼六園と並んで日本三名園に数えられている。
岡山後楽園の入り口前には、岡山県立博物館があるが、改修工事中で、令和4年まで開館せぬようだ。
岡山県立博物館には、国宝・赤韋威(あかがわおどし)鎧兜大袖付や国指定重要文化財・絹本着色宇喜多能家画像などの文化財が収蔵されている。
特に赤韋威鎧兜大袖付は、平安時代後期に作られた鎧兜だが、後世の修復が少なく、平安時代当時の姿を残す鎧としては、全国的に珍しいらしい。
拝観出来なかったのは残念だ。
岡山後楽園を築いたのは、岡山藩の二代目藩主池田綱政である。
池田綱政は、寛永十五年(1638年)に、名君と呼ばれた初代藩主池田光政の嫡子として江戸で生まれた。
この綱政も、光政に劣らぬ名君だったらしく、家臣からは「英断の君」「仁愛の君」と呼ばれたそうだ。
その一方、能や和歌、書画にも巧みで、風流を解した。
綱政は、家臣の津田永忠に命じて、岡山城天守から見下ろせる旭川の中洲に庭園を築かせた。それが現在の岡山後楽園である。
貞享四年(1687年)に着工し、元禄十三年(1700年)に完成した。
津田永忠は、当ブログで幾度も紹介してきた江戸時代を代表する大土木建築家である。
この岡山後楽園も津田永忠の偉大な事績の一つであるのだ。
後楽園は、江戸時代には岡山城の後ろにあるということで、御後園と呼ばれていた。
「先憂後楽」の精神から作られた庭園ということで、明治4年(1871年)に後楽園と改称された。
明治17年(1884年)に後楽園は池田家から岡山県に譲渡され、一般公開されるようになった。
昔岡山藩の殿様が楽しんだ庭園を、今は一般市民が散策しているわけだ。
後楽園に入って先ず目につくのは、丈高い「平四郎の松」である。
伝説では、後楽園が築かれる前、この地に住んでいた平四郎という人の庭先に生えていた松を残したものだという。
とは言え、初代の平四郎の松は枯れてしまい、今植えてあるのは二代目の松だと言う。
順路に従って進むと松林があり、松に囲まれて藩主が家臣の弓射の腕前を見学した観射亭や、タンチョウを飼育している鶴舎がある。
松林の周囲の地面には苔が生えており、その上に白い椿がはたと落ちていた。
後楽園には、戦前までタンチョウが生息していたが、戦後絶滅した。鶴舎には、戦後中国や釧路市から送られた鶴の子孫が飼われている。
鶴舎の近くに、中国の政治家、文学者の郭沫若の詩碑があった。
郭沫若は、1892年に中国四川省に生まれた。若いころ日本に留学し、第一高等学校予科を経て、岡山第六高等学校(現岡山大学)第三部医科に入る。
その後九州大学医学部に入学した郭沫若は、日本にしばらく滞在したが、中国に戻り中国国民党、中国共産党に入党し、文学作品執筆と並行して政治活動を行った。
郭沫若は、中国科学院院長として昭和30年に来日し、若いころによく訪れた後楽園にもやって来た。郭沫若が留学していたころの後楽園からは、岡山城天守が見え、天然の鶴もいた。しかし、戦時中の空襲で岡山城天守や後楽園の建物群は焼失し、鶴の鳴き声も絶えてしまった。郭沫若が訪れた昭和30年には、まだ岡山城天守は再建されていない。
詩碑には、郭沫若が来日時に第六高等学校の同窓生に渡した詩が刻まれている。
後楽園仍在
烏城不可尋願
将丹頂鶴作
対立梅林
一九五五年 冬
郭沫若
「後楽園はなおあれど、烏城(岡山城)は今になし。せめて丹頂鶴を放して、梅林に配してみたい」という意味の詩であるそうだ。
郭沫若は、日本と中国が全面戦争をしている時には重慶にいたが、青春を過ごした日本のことは忘れられなかったようだ。
郭沫若は、留学時代に親しんだ後楽園の風景がなくなってしまったことを悲しみ、中国に戻ってから後楽園に丹頂鶴一つがいを送った。
松林を抜けると、透明な水が流れる疏水がある。旭川の伏流水を後楽園に引いているらしい。
疏水の水は透明で、底の石には藻が生えている。眺めるだけで心落ち着く。メルヴィルの「白鯨」にも書いていたが、体のほとんどが水で出来ている人間は、水を見ると落ち着くように出来ているのか。確かに人は海や湖や川を見るのが好きである。
疏水に架かる石橋は、石の形そのままである。
後楽園には、名石も数多く配されている。
石橋を渡ると、正面に鶴鳴館と延養亭が見える。
延養亭は、藩主が滞在した建物で、後楽園の中で最も重要な建物である。