岡山市 東山墓地 後編

 地味な墓巡りの記事が続いているが、今回が最終回である。

 野村尚赫の墓の東側に、明治期の岡山の国立銀行、第二十二国立銀行の頭取だった村上長毅(ちょうぎ)の墓がある。

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村上家の墓所

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村上長毅の墓

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 この人物の事績は、あまりよく知らないが、金融を通して岡山の産業の発展に貢献した人物だったのだろう。

 村上長毅の墓所の東側には、明治時代に岡山県権令、岡山市長を務めた新庄厚信の墓がある。

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新庄家の墓所

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新庄厚信の墓

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新庄厚信の墓誌

 新庄厚信は、天保五年(1834年)に岡山藩士の子として生まれ、同藩士新庄直虎の養子となった。

 新庄厚信は、岡山藩の外交掛となって長州藩との交渉を担当したようだ。維新後は、岡山県権令(県の長官)に任じられたり、岡山紡績所を設立したり、2代目岡山市長を務めたりした。

 真面目な実務家だったのではないか。明治36年没。享年70。

 さて、東山斎場のすぐ東側に広い南北道があるが、その更に東側に細い南北道が一本通っている。その細い南北道を北に上っていくと、右手に陸軍少将野中勝明の墓がある。

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野中家の墓

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野中勝明墓

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 野中勝明は、文久三年(1863年)に岡山県士族小林村夫の次男に生まれ、後岡山県士族野中銀蔵の養子になった。

 陸軍に入り、明治44年には陸軍少将になった。昭和13年没。享年76。

 野中家の墓には、真新しい花が供えられていた。

 実は野中勝明の四男で、親戚の家に養子に行った野中四郎が、二・二六事件を起こした青年将校の一人であった。

 毎年2月26日に、東山墓地にある野中四郎の墓前で神式の慰霊祭が行われているが、その際に野中勝明一族の墓にも花が供えられたのだろう。

 その野中四郎の墓は、野中勝明の墓所の東側の高台の中にある。

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野中四郎の墓

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野中四郎墓

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 野中四郎は、明治36年1903年)に野中勝明の四男として生まれた。叔父野中類三郎の養子となった。

 大正13年陸軍士官学校を卒業し、大正14年には後に二・二六事件を起こした陸軍歩兵第三聯隊に入隊する。

 昭和11年(1936年)2月26日の二・二六事件発生の時は、陸軍歩兵大尉となっており、歩兵第三聯隊第七中隊長だった。

 野中の率いる部隊は、事件勃発と共に警視庁を襲撃し、警視庁と皇居桜田門を占拠した。

 事件から3日経った2月29日には、昭和天皇が事件に激怒し、蹶起部隊を叛乱軍として鎮圧する意向を示していることが明らかとなり、蹶起部隊は解散し、原隊復帰した。

 事件を起こした青年将校の大半は、身柄を拘束されて、軍法会議で死刑が言い渡され、後に銃殺されるが、野中四郎は、2月29日に陸相官邸で拳銃自決した。享年34。

 野中は遺書で、実父と養父に先に死にゆく不孝を詫びている。

 二・二六事件に対して今評価を下すのは難しい。歴史はこの事件にまだ審判を下していないと思われる。

 今日の記事でこの事件を論ずることは出来ない。ただ一つ言えるとしたら、純粋な思想だけで政治を動かすことは出来ないということである。

 次に訪れたのは、今年2月27日の「宝積山能福寺 前編」の記事で紹介した滝善三郎の墓である。

 ネット上にて、この滝善三郎の墓を探したが見つけることが出来なかったという方の記事を読んだ。後続の掃苔家のために、滝善三郎墓の位置をここに書いておく。

 東山斎場のすぐ東側の南北道を、東山斎場南側を通る東西道と交差する場所から北に約150メートル歩くと、右手(東側)に石段がある。

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滝善三郎の墓に至る石段

 この石段を登り、東に少し歩くと、左手に滝家の墓所が見えてくる。

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滝家の墓所

 この墓所の奥に、善三郎の墓がある。

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滝善三郎(誠岩良忠居士)の墓

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 滝善三郎の墓の正面には、誠岩良忠居士という戒名が刻まれている。

 滝善三郎は、今年2月27日の記事でも書いたように、慶応四年(1868年)1月に神戸三宮で発生した神戸事件のきっかけを作った人物である。

 備前藩士だった滝が、備前藩部隊の隊列を横切ったフランス水兵を槍で突いたことで、両者の間に衝突が起こった事件だ。

 善三郎は事件の責任を負って、慶応四年2月9日(旧暦)に兵庫港永福寺で外国代表の前で割腹自決した。享年32。

 滝の墓から東を見ると、墓地の最も高い場所に十字架が架かったタイル張りの建物がある。

 ここがアリス・ペティ・アダムス女史の墓である。

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アリス・ペティ・アダムス女史の墓

 タイル張りの建物の前に、墓石が建っている。アダムス女史の墓石だ。

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アリス・ペティ・アダムス女史の墓石

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 アリス・ペティ・アダムスは、1866年にアメリカで生まれた。宣教師として来日し、岡山に私立小学校や幼稚園を建て、市民に浴場を開放し、無料の施療所を開設した。

 明治45年(1912年)には、アダムスが設立した財団法人岡山博愛会が認可された。同会は、現在も社会福祉法人として存続しており、岡山博愛病院などの病院を運営している。

 アダムスには、昭和11年に日本政府から勲六等瑞宝章が送られている。翌年の1937年、アダムスはアメリカにて死去した。享年72。

 アダムスは、岡山四聖人の一人とされているそうだ。

 今回、東山墓地の様々な人物の墓を参った。フランス水兵に斬りかかった人物、攘夷派を取り締まった人物、フランスに外交使節として行って交渉した人物、フランスに留学して当地で客死した軍人、キリスト教の博愛思想を基に教育に力を入れた人物、皇道維新のためクーデター事件に参加した人物など様々であった。

 概ね近代史の中で、西洋と日本との間で揺れ動いた人物たちだったが、共通するのは、それぞれ抱いた思想に違いがあるが、日本を良くしようと思っていたことである。

 ここに眠る人たちは、今の日本を見てどういう感想を抱いているだろうか。