中の段から不明門(あかずのもん)を通って、天守の建つ本段に向かう。
不明門は、表書院のある中の段と天守のある本段を結ぶ出入口だが、普段は閉まっていたそうだ。なので、不明門と言うらしい。
不明門は、明治に入ってから解体されてしまったが、昭和41年に鉄筋コンクリートで再建された。
不明門の下には、非常に大きな石垣があるが、そこに「岡山中学の址」と刻まれていた。
岡山城の本丸には、明治29年から昭和20年まで、旧制岡山中学校が建っていた。昭和20年の岡山空襲で、天守ともども焼けてしまった。
不明門を潜って石段を登る。見返ると、不明門は鉄筋コンクリートによる再建とは言え、なかなか立派な建物だと感じる。
石段を登って本段に上る。すると、目の前に六層三階の黒塗りの天守が現れる。なかなかの威容だ。
宇喜多秀家が岡山城天守を建築したとき、鯱瓦と鬼瓦、軒丸瓦、軒平瓦に金箔が塗られていたそうだが、現在の天守にも、当時と同じ個所に金箔が貼られている。
豊臣政権の五大老宇喜多秀家の本拠に相応しい、豪華な天守である。
宇喜多秀家が建てた天守は、江戸時代の何度かの改修を経て、昭和20年まで現存していたが、空襲で焼けてしまった。姫路城天守より10年以上古い天守だったのに、残念なことである。
岡山城天守は、昭和41年に鉄筋コンクリートで再建されたが、旧天守の礎石は本段の敷地内に移設されて残されている。
元の配置のまま残されているらしい。この礎石を使って、もう一度木造天守を再建できないかと夢見たが、無理な話だろうと思う。
この礎石の北側には、六十一雁木上門が残っている。
本段から旭川に降りる六十一段の石段に通じる門だから、このような名称になったらしい。
天守内部は、エレベーターの付いた地下1階、地上6階の歴史博物館のようになっている。
お土産屋や着付け体験コーナーもある。歴史資料を展示している展示コーナーは、写真撮影禁止となっている。
地下一階には、池田家鉄砲組十人組が使用した火縄銃が展示してあった。
現代の銃に比べると、銃身が非常に長く感じる。何か意味があるのだろう。
二階には、城主が使用した天守の間が復元されていた。
今の床の間に掛けられている掛軸は、昭和天皇が昭和42年に再建された岡山城を訪れた際に詠んだ御製、「岸ちかく 烏城そびえて 旭川 ながれゆたかに 春たけむとす」を、侍従次長入江相政が書いたものである。
展示されている歴史資料は、撮影禁止であった。藩主の使用した甲冑や、刀剣類、文書類等が展示されていた。
5階には、明治時代を迎えたころの岡山城の古写真が展示してあった。
この写真は、城の南側の内下馬橋前から撮ったものだ。左手前が、明治に入って解体された大納戸櫓である。
大納戸櫓は、宇喜多直家が築いた石山城天守を移築したものとされている。もし大納戸櫓が現存していれば、岡山城より更に古い遺構として、必ず国宝となっていたことだろう。
また5階には、金箔を塗られた鯱瓦が展示してある。
この鯱瓦は、一層目、二層目、三層目の屋根の上に載っている。5階の窓からは、二層目の屋根の鯱瓦が間近に見える。
6階の展望コーナーに登る。岡山城の東西南北の眺めが一望できる。
北側には、後楽園がある。
遥か後方の山は、金山寺のある金山であろう。
西側を望むと、岡山市街が見える。表書院の跡も見下ろせる。
遥か遠くには、児島半島の山々が見える。
東側には、操山と、後楽園の借景にもなっている安住院の多宝塔が見える。
もしこれが安土桃山時代なら、ささやかな村落や田畑が見下ろせただろう。戦国時代には、城は敵の動きを掴みやすい山上に築かれたが、安土桃山時代に入って、行政に都合がいい平地に築かれるようになった。
しかし平地に城を建てると、敵軍に攻められた時に、敵軍の動きを俯瞰しにくくなる。そのために天守を築いたのだろう。天守は、平地に城を建てた場合、軍事的に必要となった建物なのだろう。
伊達政宗は仙台城を築いた時に、敢えて天守を築かなかったが、これは幕府に「戦う気はありません」という恭順の意を示すためだったと言われている。あまり立派な天守閣があると、異心があるのではないかと幕府から睨まれたのである。
池田輝政が築いた姫路城天守も、その子孫の池田家が藩主となり受け継いだ岡山城天守も、共に立派なものだが、池田輝政が家康と姻戚関係にあったため、池田家は準親藩として信頼され、立派な天守を持つことを許されたのだろう。