龍峰山静泰院

 ケレップ水制群の見学を終え、岡南大橋を渡って岡山市南区浦安本町にある臨済宗の寺院、龍峰山静泰院を訪れた。

 静泰院は、かつて岡山市中区小橋町にあったが、昭和39年の新京極橋の架橋に伴い当地に移転した。

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静泰院

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山門

 静泰院には、岡山藩初代藩主池田忠継、二代目藩主池田忠雄の墓所がある。元々は、忠雄が兄忠継の菩提を弔うために建てた寺である。

 今まで当ブログでは、池田光政を初代藩主として書いてきたが、光政は池田宗家としての初代藩主で、忠雄の死後岡山藩主となった。忠継、忠雄は光政の叔父に当る。

 ここで池田家について簡単に触れたい。

 信長の家臣だった池田恒興の子・池田輝政は、信長の死後、秀吉、家康に仕えた。

 関ケ原の合戦では東軍につき、岐阜城攻略戦で功績を上げた。

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池田家の家紋、揚羽蝶の刻まれた鬼瓦

 池田輝政は、元々秀吉の仲介で、家康の愛娘である次女篤姫を妻に迎えていた。そのため、関ケ原戦後、池田家は外様でありながら、家康からは親藩に次ぐ扱いを受けた。

 輝政と先妻糸姫の間に生まれたのが長男・利隆で、輝政と篤姫との間に次男・忠継、三男・忠雄、四男・輝澄、五男・政綱、六男・輝興が生まれた。

 関ケ原戦後、輝政は姫路藩主となり、今の姫路城を築城した。鳥取藩主に輝政の弟・池田長吉がなり、更に岡山藩小早川秀秋の改易後、次男・忠継が岡山藩主となった。その後三男・忠雄は淡路洲本藩主、四男・輝澄は播磨山崎藩主、五男・政綱は播磨赤穂藩主、六男・輝興は播磨平福藩主となった。

 つまり、播磨、因幡備前、淡路の大半が池田一門の領地となったのだ。総石高は92万石。輝政は「西国の太守」とも「西国の将軍」とも呼ばれた。

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静泰院本堂

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 江戸城を模したような、壮大な天守を持つ姫路城の築城を幕府から許されたのも、輝政の地位の高さを現わしている。

 慶長八年(1603年)に岡山藩主となった忠継は、5歳と幼少であったため、藩主とは名ばかりで、実際は父輝政のいる姫路で生活し、長男利隆が岡山で実質的な政務を執った。

 忠継は、輝政が死去した慶長十八年(1613年)に岡山に入り、藩政を司ることとなった。利隆は輝政の跡を継いで、姫路藩主となった。

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本堂前の釈迦如来

 ところで、篤姫と利隆、忠継については、面白い逸話が伝わっている。あくまで噂話なので、真相は分からない。

 篤姫は、輝政の死後、輝政の先妻の子・利隆を毒殺し、忠継、忠雄に輝政の遺領を全て相続させようと企んだ。

 元和元年(1615年)2月4日、岡山城で利隆と忠継が対面した際、篤姫は毒の入った饅頭を利隆に出した。しかし侍女の機転により、利隆は饅頭に手を付けずに終わった。

 母の謀計を知った忠継は、利隆の毒饅頭を奪って食べた。事が露見したため、篤姫毒饅頭を食べ、即日死去した。忠継は発毒のため、2月23日に死去した。

 世に毒饅頭事件と呼ばれる伝説上の事件である。篤姫と忠継の相次ぐ死が、このような憶測を呼んだのだろう。

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池田忠継廟、池田忠雄墓への入口

 昭和53年、池田忠継廟の移転に際し、忠継の遺体が調査されたが、毒物は検出されなかったという。

 元和元年(1615年)に忠継が死去し、洲本藩主だった弟の忠雄が二代目岡山藩主となった。

 14歳で岡山藩主となった忠雄は、児島湾の干拓事業を行うなど、安定した藩政を行ったが、寛永九年(1632年)に痘瘡にかかって死去した。

 忠雄の後は、鳥取藩主だった利隆の長男・光政が岡山藩主となり、鳥取藩主には忠雄の子・光仲がなった。

 以後幕末まで、利隆の子孫が岡山藩主、忠雄の子孫が鳥取藩主となって続いた。

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池田忠雄墓への参道

 静泰院の裏には、池田忠継廟と、池田忠雄墓がある。

 池田忠継廟は、桁行三間、梁間二間の単層入母屋造で、唐破風や彫刻などに安土桃山時代の様式を残している。

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池田忠継廟

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 池田忠継廟の正面の木の扉には、葵の紋が刻まれている。家康の血を享ける忠継の霊廟らしい。

 霊廟内部には、衣冠束帯姿の忠継の木像があり、廟の直下の木棺には、胡坐をかいた忠継の遺骨があるという。

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池田忠継廟

 池田忠継廟は、岡山県指定重要文化財である。

 池田忠継廟の横にあるのが、池田忠雄墓である。

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池田忠雄墓唐門

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 唐門を潜って正面にある芋型の墓石が忠雄の墓である。

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池田忠雄墓

 山芋のような形をしていることから、芋墓とも呼ばれている。

 ところで、忠雄にも毒殺されたという噂話がある。

 寛永七年(1630年)、忠雄が寵愛した小姓渡辺源太夫が、岡山城下で、岡山藩士河合又五郎に殺害された。 

 河合は江戸に逃亡し、旗本安藤家に匿われた。安藤家は他の旗本と結束して、岡山藩の河合の身柄引き渡しの要求に応じなかった。

 忠雄は、幕府に河合又五郎の身柄引き渡しを出訴した。しかしその後忠雄は病気になり、将軍の命により半井通仙院が忠雄を診療し投薬した。

 忠雄がその直後に死去した(寛永九年、1632年)ため、世間では、事態の収束を図った幕府により忠雄が毒殺されたという噂が広がった。

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忠雄に殉じた加藤主膳正の墓

 昭和53年の池田忠雄墓の移転に際し、忠雄の遺体も調査されたが、毒は検出されなかった。

 ちなみに河合又五郎は、忠雄の死後の寛永十一年(1634年)、渡辺源太夫の兄渡辺数馬と伊賀上野藩士荒木又右衛門により、伊賀上野にて討たれた。後に「伊賀越えの仇討ち」として、浄瑠璃、講談、小説になった事件である。

 忠雄の墓の向かって右に、忠雄に殉じた家臣加藤主膳正の墓がある。向かって右には、忠雄の妻・芳春院の供養塔が建つ。

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芳春院の供養塔

 また、忠雄の墓の前には、鉄製の灯籠が建っている。

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池田忠雄墓所鉄塔台

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寛永九年(1632年)の銘

 忠雄の乳母宝樹院が忠雄の供養のために奉納したものであるという。

 池田忠雄墓は岡山市指定重要文化財、池田忠雄墓所鉄塔台は岡山県指定重要文化財である。

 岡山藩というと、光政以降の治世が脚光を浴びているが、その前の忠継、忠雄の時代も様々な伝説に彩られていて興味深い。

 こうして振り返ると、今の姫路市岡山市鳥取市の基を造ったのは池田家である。西日本に残した池田家の巨大な足跡を思った。