岡山後楽園は、苔ではなく芝生を大量に使った日本で初めての庭園である。
後楽園の作られた場所は、元々旭川の中洲であり、地盤は砂質で、湿度が不足していた。
そのため苔が自生せず、代わりに日本に広く自生している野芝を使うことになった。
日本の芝は、西洋の芝よりも繊細で、維持が難しい。この庭園の美しさを維持するのは、並大抵のことではあるまい。
松林を抜けて、広い芝を見晴らすと、彼方に岡山城天守が聳えている。郭沫若が来日した時には再建されていなかった天守だ。
戦後に建てられた鉄筋コンクリート製の天守とは言え、後楽園の借景の一つとして外すことが出来ない。
冬の間、芝は枯れている。この芝が鮮やかな緑色になると、本来の後楽園の景色が現れるのだろうが、芝が枯れた冬の後楽園も、これはこれで味があるものだ。
岡山城天守、唯心山、沢の池、借景の操山という、後楽園を代表する景物が一望できる。
岡山後楽園にある鶴鳴館(かくめいかん)は、昭和24年に山口県岩国市にあった吉川邸を移築したものである。
吉川家は、毛利家の家臣の家で、代々岩国藩主を務めた家である。
岩国藩第13代藩主で維新後は岩国県知事を務めた吉川経健が、明治25年(1892年)に棟上げした吉川邸が、この鶴鳴館である。
岡山後楽園の建物の大半は、岡山空襲で焼失してしまった。戦後になって、後楽園復興のため、岩国にあった吉川邸がここに移築された。
吉川家と岡山藩の間に所縁があったのかは分らぬが、今では鶴鳴館は、後楽園での様々な催しものに使用される重要な建物になっている。
私が訪れた日は、振袖を着た女性たちを撮影する振袖撮影会が催されていた。
さて、鶴鳴館の隣に建っているのが延養亭である。
延養亭は、岡山藩主が後楽園を訪れた時、居間として使用したり、賓客をもてなすのに使った建物で、後楽園の中では最も重要な建物である。
しかし昭和20年の空襲で焼失してしまった。今ある延養亭は、昭和35年に当時第一級の木材と技術で、築庭当時の間取りで再建されたものである。
茅葺入母屋造りの、侘びの精神を感じさせる建物だ。
延養亭は一般公開されていないが、ここからは唯心山、沢の池、借景の操山を眺めることが出来る。
さて疏水にかかる石橋を越えて、延養亭の南側に回る。
この石橋が、砥石のような形の石を用いている。
石橋を越えると、左の地面に巨きく平らな石が埋め込まれている。よくもこんな平らな巨石を探し出してここまで運んだものだ。
和風庭園を楽しむには、石を楽しまなければならないと思う。石には表情がある。
実はこの巨石の下を曲水が流れていて、延養亭の南側の花葉の池まで水が流れ込んでいる。
石橋を越えると、右手に延養亭の奥に建つ栄唱の間が見えてくる。
栄唱の間は、その奥に建つ能舞台で演じられる能を見学するための座敷である。栄唱の間の奥に、能舞台が見える。
池田綱政は、優れた能の舞手で、この能舞台で自ら能を舞う姿を、家臣のみならず領民にも見せたという。
能舞台も栄唱の間も空襲で焼失したが、能舞台は昭和33年に、栄唱の間は昭和42年に再建された。
殿様が領民に自らの舞姿を見せるというのは、なかなか乙なものだが、領民を大切にした岡山藩らしい計らいだ。
満月の夜に能舞台の前で篝火が焚かれ、栄唱の間に座った領民たちの前で藩主が能を舞う。
岡山藩は、津田永忠の土木工事によって、広大な新田を開発し、収穫力を上げた。その収入の上に、岡山藩の豊かな精神生活が築かれたのではないかと思われる。