寒翠細響軒から東に歩くと、幕末から明治にかけて築かれた建物、五十三次腰掛茶屋がある。
この建物にかつて「東海道五十三次」を描いた扁額が掲げられていたことから、この名が付いたという。
竹でできた連子窓を通して、沢の池、唯心山、岡山城天守を眺めることが出来る。
写真では、丁度竹格子によって天守が隠れている。建物近くの池の端に立って同じ景色を眺めてみる。
このように、手前の沢の池とその奥の唯心山、最奥にある岡山城天守を入れた構図の写真は、後楽園を紹介するパンフレットや絵葉書などでよく使われるカットである。
後楽園設計者の津田永忠は、この景観を造るため、天守の位置から唯心山と沢の池と中央の橋の位置を決めて築庭したのに違いない。
五十三次腰掛茶屋の近くに、その津田永忠を顕彰する石碑が建てられている。
この石碑は、幕末の岡山藩主だった池田茂政と池田章政が、明治19年1月に建立したものである。
岡山藩政に多大な貢献をした津田永忠が、あまり評価されることなく埋もれていることを述べ、新田の開発、治水工事、閑谷学校などの教育施設の建設、飢饉に備えて米を備蓄する倉安制度など、津田が行った事業を紹介している。
知れば知るほど偉業を成し遂げた人物なのだが、なかなか全国的な知名度を有するに至らない。
ちなみに岡山藩主池田家だが、昭和天皇の四女池田厚子さんの夫でもあった第16代当主池田隆政が、平成24年に死去し、ついに絶家になってしまった。
さて、五十三次腰掛茶屋から東に行くと、慈眼堂というお堂がある。
この慈眼堂は、元禄十年(1697年)に、池田綱政が領民の繁栄を願って建立したお堂で、観音像を祀っていたという。
仁王門を潜ると、花崗岩を三十六個に割って運び、ここで元の形に組み立てた烏帽子岩がある。
烏帽子岩の奥にある慈眼堂は、今は空堂になっていて観音像はない。戦災で燃えてしまったのだろうか。
歴代藩主が崇敬したお堂である。
慈眼堂の東隣には、鳥居があり、瑜伽大権現を祀る由加神社がある。
倉敷市にも瑜伽大権現を祀る由加神社があるが、その瑜伽大権現を勧請したものだろう。
さて、後楽園の中心部にあるのが、沢の池である。園内に3つある池で最も大きな池であり、池中に砂利島、御野島、中の島という3つの島がある。
上の写真は、沢の池を西から東に写したものだが、手前に砂利島があり、その奥に御野島と中の島が見える。
中の島と御野島には、木橋で渡ることが出来る。御野島の先端には、水上に建てられた東屋がある。夏などに、風を感じながらあそこから池の周りの風景を眺めたら、さぞ涼しいことだろう。
中の島の上には、名は分らぬが茶室があり、近くには舟がつながれている。舟遊びも行われたことだろう。
中の島の枝折戸から茶室までの間には、踏み石が置かれている。茶室の上り口に近い石は、名は分らぬが名石だろう。
沢の池には、錦鯉が放されていて、餌やり場もある。私が近寄ると、多くの鯉が寄って来た。
沢の池の東側から、西側の鶴鳴館と延養亭の方を望むと、その奥に改修中の岡山県立博物館やマンションが見える。
確かに、後楽園からは近代的な建物は見えない方がいい。
園内には、茶畑がある。築庭時からここにある茶畑である。
ここで採れる茶葉は、やや苦みが強い古種であるそうだ。
後楽園は、江戸時代には園の東半分を田畑が覆っていた。明治時代になって、田畑が覆っていた部分も庭園として整備された。
現在もその名残である井田(せいでん)が残っている。この井田は、幕末に作られたらしい。
井田とは、正方形の土地を井の形に九等分した田で、古代中国の周王朝で行われていた田租法で用いられた田の形とされている。
ここではもち米が育てられている。
沢の池には鯉が泳ぎ、水鳥が集まっている。自然の景物と生き物を眺めると、心が静まってくる。
若いころは和風庭園など、良さがさっぱり分からなかったが、年を取ると不思議とこういう庭園を良いと思うようになってくる。
年を取るというのも、考えてみたらいいものだ。