展望デッキから歩いて復元された角楼(かくろう)と西門に近づく。
先ず見えてくるのは、角楼である。
鬼ノ城には、西側からが最も接近しやすい。そのため、西側に最大の門を備え、角楼を備えたのだろう。
角楼の下部には、立派な石垣が積まれ、その上に木製の楼が建てられている。楼の柱が石垣の間に挟まっている。
この石垣も、古代からそのまま残っていたものではなく、復元されたものである。
しかし、石垣の間に柱が挟まった建築物は初めて見た。
この角楼は、古代山城の中でも初めて確認されたものである。中国の城郭でいう馬面、朝鮮の城郭でいう雉(ち)に当たる。
ここは尾根続きで攻められやすいため、城壁の一部を張り出して防御力を高めたものである。
鬼ノ城の城壁は、土を人力で上から固めていく版築という技術で造られたものである。
角楼の城壁は、今は西門の城壁と離れているが、築城時は繋がっていたことだろう。
角楼から西門に接近する。
西門の左右には、版築工法で造られた高い土の城壁が続いている。この城壁も古代と同じ技法で復元されたものである。
城壁は、高さ5~7メートル、幅6メートルという大規模なものである。今は西門の周囲だけ城壁が復元されているが、かつてはこの城壁が総延長約2.8キロメートル続いて鬼ノ城を形成していたわけだ。
鬼ノ城の城壁の造り方だが、まず斜面の上の草木や柔らかい土を取り除き、斜面の下部を切ってその下に列石を並べた。
列石の上に、せき板を並べ、せき板の内側に土を入れて、人が上から土を踏んだり棒で突いて突き固めていく。
最後にせき板を外して、城壁の上に板壁を建てた。
人が上から土を踏んだり、棒で突いて固めるという版築という工法は、原始的なようだが、昭和の中頃まで溜池の堤を築くのにも行われていたという。
こうして築かれた城壁だが、長い年月を通して崩れていき、今は当時のものは残っていない。
今も残っているのは、石垣である。戦国時代の山城の土塁は、今も残っているものがあるが、さすがに7世紀の土塁は風化に耐えなかったのであろうか。
復元された西門は、間口三間(約12.3メートル)であり、九州の大野城の大宰府口城門を凌ぐ古代山城最大の城門である。
発掘調査の結果、西門跡は、極めて良好な状態で保存されていることが分かった。
12本の柱の位置と太さ、埋め込まれた深さ、各柱間の寸法も正確に知ることが出来た。
また通路床面の敷石、石段も残っていたので、城門の規模と構造を具体的に知ることが出来た。
この発掘された遺跡の規模を元に、3階建ての西門が復元された。
1階は通路、2階は連絡用通路、3階は敵を見張るための櫓として復元された。
通路の敷石は、築城当時そのままのものだろう。
古代の兵士も、この上を歩いたのだ。
城門の柱や扉は、現在の木材で復元されているが、よく見ると手斧で削られた跡がある。当時の技法にこだわった復元である。
西門は裏側から眺めた方が全体の構造がよく分かる。
遺跡からは、瓦が発見されなかったので、西門の屋根は板葺きだったと推測されている。
確かにこの西門と高い城壁は、攻める側からすれば攻撃するのを躊躇うような威容を誇っている。
現在日本に残っている最古の木造建築物は、大和の法隆寺だが、古代山城は法隆寺と同じ7世紀に建造された建築物である。
鬼ノ城に当時の木造の建築物は残っていないが、当時の石垣や敷石は残っている。鬼ノ城は、日本の建築史上に於いても、貴重な遺構と言えるだろう。