栢寺廃寺跡 伝備中国府跡

 岩屋寺の参拝を終えて、岡山県総社市南溝手にある総社市埋蔵文化財学習の館に赴いた。

総社市埋蔵文化財学習の館

 ここは、総社市内の遺跡からの出土品の保管、展示を行っており、鬼ノ城に関する資料も展示されている。

 土器作りの体験なども出来るようだ。

 私が訪れた日は休館日であった。

特別展のポスター

 特別展の展示ポスターをよく見ると、以前訪れた岡山市北区にある岡山県古代吉備文化財センターのものであった。

 総社市埋蔵文化財学習の館も同センターの展示に協力していることだろう。

 ここから西に約150メートル歩くと、白鳳時代の寺院跡である栢寺(かやでら)廃寺跡に至る。

 栢寺は、古代にこの辺りを領した豪族賀陽(かや)氏の氏寺と言われている。

賀陽山門満寺の旧山門

 栢寺廃寺跡は、近年廃寺となった真言宗の寺院、賀陽山門満寺の境内にある。

 門満寺の建物は残っていなくて、ただ山門だけがある。

 

賀陽山門満寺の碑

 旧門満寺の境内は、今はだだっ広い空き地になっている。

旧門満寺の境内跡

 境内跡の南東隅に、復元された栢寺の塔基壇がある。

復元された塔基壇

 昭和52~53年に行われた発掘調査で、ここから外周を縁石で囲み、内側に瓦を並べた塔基壇の跡が発見された。

 基壇の中央にある筈の塔心礎は抜き取られていた。

 塔基壇以外の伽藍跡は発見されておらず、伽藍の配置がどうなっていたかは分からない。

復元された塔基壇

 栢寺が創建された当時は、地面が今より約60センチメートル下にあったという。

 1350年ほどの間に、土が60センチメートル厚くなったのである。

 そのため、発掘された塔基壇跡は、地下に存在する。発掘結果を元にして、塔基壇跡の上に当時の塔基壇の姿を復元したのである。

 基壇上には礎石が据えられているが、創建当時の礎石は僅かしか残っていない。

現存する塔礎石

 塔基壇平面図に網掛で示された礎石が、創建時から残る礎石である。

 塔心礎跡の周囲にある4つの礎石と、南東端、南西端の礎石が、創建時から残る礎石だ。

 あとはコンクリートで復元された礎石が並べられている。

礎石の配置

基壇中心部の礎石

創建時から残る礎石

 抜き取られた塔心礎は、塔基壇の西側にある石造五重塔の下にある石だと言われている。

石造五重塔

塔心礎

 塔心礎を上から見ると、中が刳り抜かれて水が湛えられている。

塔心礎

 塔心礎は、塔基壇跡から掘り出されて、門満寺の手水鉢として使われていたのかも知れない。

 境内の東側からは、文字を刻んだ栢寺の瓦が発掘されたそうだ。

出土した文字瓦

 官寺の文字瓦が郡、郷の地名、瓦の貢進者、寄進者を刻んでいるのに比べ、栢寺の文字瓦は神事や祭祀に関することが刻まれていて、私寺としての性格を示しているという。

 境内の南東宮に、小さな祠が残されている。

小祠

 廃寺となった門満寺の鎮守であろう。

 門満寺の建物は撤去されたが、鎮守のみが残されている。土地の神様を祀る祠を撤去するのは畏れ多いという、日本人独特の判断から残されたものだろう。

 栢寺廃寺跡から約300メートル南西に行くと、伝備中国府跡がある。地名で言えば総社市金井戸にある。

備中国府跡

 備中国府跡の遺跡は発掘されていないが、この辺りには、北国府、南国府といった字名が残っていることから、ここに備中国府があったと言われている。

備中国府跡の碑

備中国府跡の説明板

 国府は、律令制時代に各国に置かれた行政官庁のことで、国司以下の行政官が集まり、政務を執っていた。

 国府の近くには、総社や国分寺などが置かれた。

 国府は、概ね律令制が導入される前からその地域の中心だった場所に置かれた。

 古墳時代の地域の中心には、大型古墳が築かれた。国府跡の付近に大型古墳が多いのはそのためである。

 次回は、近隣の古墳を紹介する。