山陰地方にヤマト国連合と異なる四隅突出型墳丘墓の文化圏を形成した出雲王国は、4世紀には大和王権の支配下に入ったようだ。
この時期には、四隅突出型墳丘墓に代わって、大和王権の支配のシンボルである前方後円墳が山陰地方で築かれ出した。
山陰に存在する前方後円墳を見ると、出雲が大和に服属したのを実感する。
鳥取県最古の前方後円墳は、令和4年11月9日の当ブログ記事「鳥取市南部の古墳 前編」で紹介した、鳥取市久末六部山にある六部山3号墳である。
六部山3号墳は、4世紀半ばに築造された古墳だと言われている。
六部山3号墳からは、埴輪の破片や、神頭鏡という国産の銅鏡が見つかっている。
神頭鏡は、鳥取県立博物館で展示してある。
山陰の王権が、どのように大和王権に服属したか、この時代にそのドラマが秘められているのである。
六部山3号墳の近くの鳥取市古郡家(ここおげ)には、4世紀後半に築かれた因幡最大の前方後円墳、古郡家1号墳がある。
この古墳も、令和4年11月11日の当ブログの記事「鳥取市南部の古墳 後編」で紹介している。
六部山3号墳と古郡家1号墳は、時期的、場所的に近いので、六部山3号墳の被葬者の後継者が、古郡家1号墳に埋葬されたものと思われる。
古郡家1号墳から発掘された遺物も鳥取県立博物館にて展示されている。
長方板革綴短甲は、短甲の中でも最も古い形を残しているという。
また、八ツ手葉形青銅製品は、大和の新沢500号墳から同型品が出土しており、大和王権とのつながりが確認出来る品である。
土師器は、被葬者がこれを枕にしていたもので、土器枕の可能性がある。
古郡家1号墳の埋葬品は、豪華であり、大和朝廷の力が完全に山陰に及んでいたことを示している。
古墳時代中期の5世紀は、窯を使った陶器の製造や、鉄器の生産、乗馬、機織りなどの技術が大陸から伝わり、大和朝廷の勢力が大いに伸張した時代である。
5世紀中ごろからは、穴窯を使った須恵器の生産が始まった。
山陰地方では、出雲を中心に、子持壺という肩に子壺を付けた須恵器が生産された。
入母屋造の居館の埴輪である。当時の古墳に埋葬された豪族の家がどんなものだったかが分かる。
鳥取県東伯郡湯梨浜町高辻の東郷池の近くの畑から、明治41年に子持勾玉という奇妙な形をした勾玉が発掘された。
この子持勾玉は、古墳時代中期に造られたもので、黒色の滑石から削り出されて成形されたものである。子孫繁栄や豊穣を祈るための祭儀に使われた器物とされている。
この様な形の器具は全国的に珍しく、国指定重要文化財になっている。
発掘された古代人の遺骨のDNA分析と現代日本人のDNA分析により、古墳時代に海外から日本に渡来した人のDNAが、現代日本人のDNAの75%を占めているのが分かった。
古墳時代は、大移民時代だったのである。
この大移民時代に、いかにして日本の文化が発展していったのか、興味を覚えることである。