生野の変

 文久三年(1863年)10月11日、尊王攘夷派の元福岡藩士・平野国臣長州藩士南八郎(本名河上弥市)らは、いわゆる七卿落ちで長州に落ち延びた公卿の澤宜嘉を総帥に迎え、倒幕のため但馬国生野の地で挙兵する。

 翌12日、志士達は生野代官所を襲撃し、無血占拠した。彼らは但馬の農民兵に対し、決起するよう檄を飛ばし、その結果2000人の農民兵が生野に集まった。しかし鎮圧に来た姫路藩豊岡藩出石藩の藩兵の前に志士達は動揺し、澤は逃亡、その後落伍者が相次ぎ、あっという間に部隊は四散した。

 南八郎ら13名の志士達は、近くの山口村妙見山麓で自刃して果てた。

 これを生野の変という。

 朝来市口銀谷には、生野代官所の跡地があり、そこに生野の変の志士たちの決起を記念する生野義挙碑が建っている。

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生野代官所

 生野代官所跡は、天文十一年(1542年)に但馬国守護山名祐豊が、銀山経営の拠点とするために築いた生野城の跡地でもある。

 生野城は、三層の天守閣、隅櫓、外堀を備えた平城だった。

 その後、生野の地の支配者は、太田垣、豊臣、徳川と移った。寛永六年(1629年)に生野城は取り壊され、幕府直轄の代官所が置かれた。

 平野、南らが襲撃したのは、この代官所である。

 生野の変では、幕藩体制はいささかも動揺しなかったが、生野の変は、明治維新後、大和国天誅組の変と並んで、明治維新の先駆けとして評価されるようになった。

 昭和15年皇紀2600年の年に、生野代官所の跡地に生野義挙碑が建立された。

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生野義挙碑

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 ちなみに代官所は、明治2年に生野県庁となった。明治4年、生野県が豊岡県と合併すると、生野県庁舎は取り壊された。

 城壁と外堀は残されたが、それも大正末年に全て取り壊された。

 平野らは、生野代官所を占拠する前日、口銀谷の延応寺で挙兵した。

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延応寺本堂

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 延応寺は、延応元年(1239年)に創建された、生野町内では最も古い真言宗の寺院である。

 本堂の前には、樹齢1000年以上と言われる兵庫県天然記念物の大ケヤキがある。

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ケヤキ

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 大ケヤキの幹には、びっしり苔が生えている。傾いた木が倒れないように、鉄の支柱が支えている。

 この大ケヤキは、平野ら尊王攘夷派志士の挙兵の姿を見送ったことだろう。

 口銀谷から国道312号線を北にしばらく走ると、朝来市山口字上山に至る。

 ここに、生野の変の首謀者、南八郎らが自決した跡地に建つ、山口護国神社がある。

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山口護国神社

 南八郎は、元長州藩士で、二代目奇兵隊総督を務めた人物である。

 志士達が生野代官所を占拠した後、出石藩が出兵したことを聞いた南ら18名は、出石藩兵を迎え撃つため、生野の北にある山口村の妙見山に布陣する。

 しかし、10月13日夜から14日朝にかけて、勝ち目がないと悟った生野代官所の志士達は、散り散りとなった。

 14日午後、南ら13人は、生野の本陣に合流しようとしたが、離反した農民兵たちがしきりに発砲してくるので撤退した。南らは妙見山に戻り、山伏岩で自刃した。

 山口護国神社には、南八郎ら殉節志士の墓石や墓誌が建っている。

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殉節志士之墓

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 慶応四年(1868年)に建てられた殉節志士之墓の題字は、西園寺公望が書いたものである。

 神社のすぐ横に、南らが自決した山伏岩がある。

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山伏岩

 生野の変の志士達は、日本の正統な統治者は天皇で、外国人が日本の国土に出入りすることは、神州を汚す許しがたい事と思っていた。

 そういう思想を持った志士達からすれば、天皇の権力を横領し、外国と条約を結んで交易を開始した徳川幕府は、許しがたい歪んだ政府であった。

 生野の変の後に成立した明治政府は、外国との交易がなければ国を発展させることが出来ないことを理解しており、幕府が外国と結んだ通商条約を継承した。生野の変の志士達からすれば、明治政府の政策の半分は不本意なものだったろう。

 歴史を眺めていると、人間社会が様々な迂路を辿っても、最後に勝つのは経済的な繁栄を求める路線であったことに気が付く。どんな思想も、この路線の前に敗れ去っている。

 豊かで平穏な生活を送りたいという人間の気持ちには、どんな先鋭な思想も勝てないと見える。