広田八幡神社 広林山大宮寺

 由良要塞跡の見学を終えて、神戸淡路鳴門自動車道洲本インターチェンジ付近まで戻った。

 インターから西に進むと南あわじ市に入る。

 南あわじ市広田広田の集落に入ると、その奥に広田の鎮守である広田八幡神社がある。

広田八幡神社

 小高い丘の上に社殿がある。それにしても、淡路には立派な八幡さんが多くあるような気がする。

 石段を登ると立派な随身門がある。棟の上に鯱を置き、棟瓦に龍と虎の瓦がある。

随身

龍虎の棟瓦

 八幡神は、第15代応神天皇の神霊で、誉田別(ほむだのわけ)命と呼ばれ、豊後国宇佐八幡宮に祀られ、そこから全国に勧請された。

 奈良時代に朝廷から仏教の守護神として八幡大菩薩の神号を与えられ、神仏習合の神様になった。

 中世には弓矢の神として武家に崇拝された。

拝殿

 神仏習合が進むと、全国各地の寺の鎮守として八幡神が勧請された。

 この広田八幡神社の由来は、寿永三年(1184年)に源頼朝が、西宮の廣田大社にこの地を荘園として寄進して、廣田大社に祀られていた八幡神をこの地に勧請したことに始まるという。町の名の由来もここから来ているのだろう。

本殿

 広田八幡神社の社殿は、明治32年に失火により全て失われた。4年後に再建されたのが今の社殿である。

 広田八幡神社は、広田の集落を見下ろす丘の上にある。いかにも村の鎮守らしい。

 その広田八幡神社の裏手には、広田梅林が広がる。

広田梅林

 昔からこの地は梅の名所だったが、いつしか廃れてしまったらしい。昭和41年に地元の老人クラブを中心に梅林事業部を結成し、鶯宿や南高などの梅300本を植樹して、梅の名所を復興させた。

 梅の季節に来たら、さぞ美しかろう。

 さて、広田八幡神社の東隣にあるのが、真言宗の寺院、広林山大宮寺である。

広林山大宮寺

 大宮寺は、往古に3ヶ寺が合併した寺で、平安時代の鳥仏師作の秘仏阿弥陀如来像を本尊とし、脇侍仏として毘沙門天を祀るという。

大宮寺本堂

本堂彫刻

本堂内陣

 大宮寺の裏手には、ミニ四国八十八ヶ所霊場があるが、その途中に「天明志士紀念碑」が建っている。

天明志士紀念碑

 この天明志士紀念碑は、天明二年(1782年)に発生した縄騒動と呼ばれる一揆の犠牲者の顕彰碑である。

 当時打ち続く天候不順による凶作続きで、農民は疲弊し、徳島藩の財政も窮乏していた。

 藩は、収入増のため新法を次々と繰り出した。特に「縄趣法」という荷造り用の縄の供出命令は農民を苦しめた。

 天明二年(1782年)五月三日、山添、上内膳、納の3ヶ村の百姓が、下内膳村の組頭庄屋宅に押しかけ、縄の代わりに筵でおさめることを認めるよう陳情した。

 現代人には理解しがたいが、農民にとって、筵よりも縄を作る方が、遥かに手間がかかったのだろう。

 五月十三日には6ヶ村、五月十五日には9ヶ村の百姓が、中筋村の組頭庄屋宅に押しかけて命令の撤回を強訴した。

 徳島藩一揆の要求を受け入れて命令を撤回した。その代わり首謀者の広田宮村の才蔵と山添村の清左衛門を翌年三月二十三日に打ち首とした。

天明志士之碑

 その後、淡路島内各地では、打ち首獄門となった2人の霊を秘かに祀り、その事績を語り伝えていた。

 明治31年になって、縄騒動の犠牲者を顕彰する天明志士紀念碑と、板垣退助が撰文を書いた天明志士之碑が建てられた。

 今でも天明志士の命日である毎年3月23日には、石碑の前で天明志士春季大祭が催され、五尺踊りという踊りが奉納されている。

天明志士之碑撰文の板垣退助の名

 板垣退助は、自由民権運動の活動家だが、自由民権の概念のない江戸時代に、自分たちの生活を守るために立ち上がった百姓たちに、自分たちの運動に繋がるものを感じたのだろう。

 明治の自由民権運動は、大正の憲政擁護運動に結び付いた。これらの運動は、戦後の民主主義の源流と言ってもよい。日本の民主主義は、決してアメリカから与えられただけのものではない。

 日本の国柄というと、万世一系天皇を中心とした国体とされているが、民衆が自分たちの権利を守ろうとしてきた歴史も、確固として存在するのである。