口銀谷

 私は、神戸市西区の太山寺を訪問して、播磨の史跡巡りを終えたが、これはまだ長い旅路の一歩に過ぎず、これから播磨に隣接する国々の旅が続く予定である。

 播磨に隣接する国は、摂津、丹波、但馬、因幡、美作、備前、淡路の7カ国があるが、この内、備前、美作、摂津には既に足を踏み入れている。

 これから、これら7カ国の史跡を巡っていくことになる。

 今日は、初めて但馬の史跡を紹介する。但馬は、兵庫県北部を占めるが、同じ兵庫県でも、北と南では文化、風土、人情が大きく異なる。

 今日紹介するのは、兵庫県朝来市生野町の口銀谷(くちがなや)という街並みである。

 生野は、但馬の最南端に位置して、播磨と隣接し、但馬の玄関口と呼ばれる地域である。

 戦国時代に開鉱した生野銀山で名高い町だ。銀山のある谷間の手前には、銀山で働く人たちが居住する町が開けた。それが口銀谷である。

 口銀谷の街には、土壁、漆喰、格子窓の伝統的和風建築群が並び、それらの建物は、鉱滓(カラミ石)を石垣に使っているのが特徴である。

 生野銀山は、昭和48年に閉山した。口銀谷は、今では銀山が活況を呈していた時代に建てられた古い建物群が並ぶ、静かな落ち着きある町である。

 口銀谷の生野小学校の南側にある黒漆喰の家は、大正期の材木商の邸宅だが、現在は資料館・生野書院として、銀山や代官所の資料を展示している。

f:id:sogensyooku:20201021194232j:plain

生野書院

f:id:sogensyooku:20201021194349j:plain

f:id:sogensyooku:20201021194433j:plain

生野書院の門

 私が訪問した日は、生野書院は休館日であった。

 銀山は莫大な利益を生むため、江戸時代には、生野は幕府の直轄地であったが、明治初年には明治政府が銀山を経営した。

 現在の生野書院の門は、官営生野銀山の初代鉱山長朝倉盛明の官邸の門を、平成3年に移築したものである。約120年間、歴代鉱山長邸の門として使用されたものだ。

 朝来市役所生野支所の横には、国登録有形文化財となっている桑田家住宅がある。

f:id:sogensyooku:20201021195143j:plain

桑田家住宅

f:id:sogensyooku:20201021195236j:plain

f:id:sogensyooku:20201021195616j:plain

 桑田家住宅は、江戸時代後期に建築された、旧地役人邸宅である。煙出しを持った中二階の母屋と土塀の上には、生野瓦が載っている。土塀の生野瓦は江戸時代のものである。

 内部は非公開であった。

 口銀谷の町中を散策すると、生野クラブと称する古い建物があった。

f:id:sogensyooku:20201021200047j:plain

生野クラブ

f:id:sogensyooku:20201021200120j:plain

 生野クラブは、明治19年に大山師の邸宅として建設され、明治21年には、有栖川宮熾仁親王がご宿泊になったという。

 現在は民間会社が買い上げ、保養地として使用されている。袖壁や卯建(うだつ)が現存する建物である。

 口銀谷の町を西に行き、銀山方面に近づくと、鉱山の職員住宅として建てられた社宅群がある。

f:id:sogensyooku:20201021200630j:plain

生野鉱山社宅

 生野鉱山は、明治に入って宮内省御料鉱山となったが、明治29年には、三菱鉱業株式会社に払い下げられた。

 鉱山社宅は、明治9年に建てられたものだが、大正時代になって、三菱鉱業によって改築された。

 社宅は全部で12棟現存するが、その内甲7号棟は、志村喬記念館となっている。

f:id:sogensyooku:20201021202401j:plain

生野鉱山社宅甲7号棟

f:id:sogensyooku:20201021202449j:plain

 志村喬は、昭和を代表する映画俳優だが、生野鉱山の社宅で生誕した。志村の生家はもう取り壊されてしまったが、その雰囲気を残す甲7号棟が、志村喬記念館として公開されている。私が訪れた日は閉館日であった。

 かつて、生野鉱山の鉱山本部から旧生野駅までは、電気で走るトロッコ列車が走っていた。

 運行されていたのは、大正9年(1920年)から昭和30年(1955年)までの35年間である。

 生野鉱山や近隣の明延鉱山から採掘された鉱石を生野駅まで運ぶためのトロッコ列車であった。

 列車は、とうの昔に廃線になっているが、口銀谷の市川沿いの土手に、線路の軌道跡が残っている。

 軌道を支える、アーチを持つ石積み擁壁が、独特の景観を生み出している。

f:id:sogensyooku:20201021203948j:plain

トロッコ列車軌道跡

f:id:sogensyooku:20201021204037j:plain

f:id:sogensyooku:20201021204116j:plain

f:id:sogensyooku:20201021204226j:plain

 鉱山が栄えていたころ、この石積み擁壁上の軌道を、鉱石を満載した電車が、一日何往復も走っていたことを想像した。

 昭和生まれの日本人が、日本の古き良き時代として懐古するのは、日本の工業が最盛期だった時代である。

 そんなころには、汗を垂らして仕事をした後に社宅に帰って来た鉱山職員が、元気にはしゃぐ子供たちに、今日学校であったことなどを聞いたものだろう。