覚応寺から北に歩くと、浄土宗の寺院、智光院慶安寺がある。
この寺は、今に残る姫路城天守を築いた池田輝政の妻で、初代鳥取藩主池田光仲の祖母に当たる良正院の菩提寺である。
輝政の子の池田忠雄は、淡路洲本藩主になって、洲本専称寺を良正院の菩提所としたが、元和元年(1615年)に岡山藩主池田忠継が死去したことにより、備前岡山藩に国替えとなり、専称寺も岡山に移った。
忠雄の子光仲が、寛永九年(1632年)に岡山から鳥取に国替えとなったことにより、慶安寺も鳥取に移った。
本堂は新しい鉄筋コンクリート製の建物である。
境内の中では、古さを感じさせるものとては、如意輪観音の石像くらいしかない。
慶安寺の北隣には、浄土宗の寺院、正眼山光明寺がある。
光明寺は、元々湯所(現鳥取市湯所町)にあったと言われている。
本堂は、天明元年(1781年)の建立である。
本堂の正面には、格子状にガラスが嵌め込まれた重厚なガラス戸がある。
ガラス戸を開けると、本堂内に入ることが出来た。
本堂には、阿弥陀如来と観音菩薩、勢至菩薩の阿弥陀三尊が祀られている。
本堂の欄間の龍と虎と獅子の彫刻がなかなか見事であった。静かな本堂内で、嘆声を上げた。
使われている材木の質もいいように感じる。
阿弥陀三尊を祀る仏壇は、極楽もかくやというような絢爛たるしつらいだ。
本尊に向かって右手に、「南無阿弥陀仏」の御法号を書いた掛け軸が下がっている。
日本ほど念仏が盛んな国はない。浄土の教えは、中国大陸ではあまり広がらなかった。
日本の浄土教は、日本の宗派の中で、最も日本人の特性を表していると思う。
ただ阿弥陀仏の誓願に縋り、「南無阿弥陀仏」を唱えるだけで浄土に往生することが出来るというシンプルな教えは、簡素を尊ぶ日本人の美意識によく合ったと言っていいだろう。
阿弥陀如来崇拝は、一種の一神教のようだが、一神教のような厳しさのない、穏やかで優しい教えである。
「南無阿弥陀仏」の御法号を見ると、私も落ち着いた気分になる。
さて、境内の墓地には、荒木又右衛門の門人で、伊賀越の仇討ちで渡辺数馬の助太刀をした岩本孫右衛門の墓がある。
伊賀越の仇討ちは、日本三大仇討の一つと言われている。
池田忠雄が岡山藩主だった寛永七年(1630年)に、岡山藩士河合又五郎が、藩士渡辺数馬の弟源太夫を殺害し、江戸に逃亡した。
又五郎は、江戸の親戚の旗本安藤家に匿われた。忠雄は又五郎の身柄を引き渡すよう幕府に要求し、世情は騒然となった。
忠雄は幕府に訴えた直後に急死したが、その後幕府は又五郎を江戸払いにした。
渡辺数馬は、姉婿の大和郡山藩剣術師範荒木又右衛門と、又右衛門の門人岩本孫右衛門の助太刀を得て、寛永十一年(1634年)、伊賀上野でついに河合又五郎一行を見つけ出し、激闘6時間の末、又五郎を討ち取った。
又五郎側にも剣の使い手が多く、この戦いで、孫右衛門は浅手深手11か所の傷を負ったという。
数馬は、忠雄の子で鳥取藩主になっていた池田光仲に仇討ちの成功を報告した。
寛永十五年(1638年)、岩本孫右衛門は、数馬や又右衛門と共に鳥取藩に雇われ、寛文八年(1668年)に72歳で死去した。
伊賀越の仇討ちは、江戸時代の人々の心を打ち、浄瑠璃の題材になって、人口に膾炙した。
岩本孫右衛門の墓に詣でると、歴史に残る一仕事を為遂げて満足した人の、安らぎの姿を見るような気がした。