宗鏡寺から出石の中心街に歩いて戻る。
明治維新後、出石城の建物はほとんどが壊された。また明治9年の大火で、出石の町は甚大な被害を受けた。
しかしこの家老屋敷は生き残り、現代に伝えられている。
屋敷を囲む白漆喰の土塀と長屋門も残っている。家老屋敷は、今では出石藩に関する資料を展示する資料館として公開されている。
とは言え、建物の造りは、改修を経てはいるが、当時のままである。
出石藩仙石氏の時代に、家老職に就くことが出来たのは、荒木家、仙石式部家、仙石主計家の三家であった。仙石式部家と仙石主計家は、主家の分家である。
この家老屋敷は、仙石式部家の屋敷であったという。
見たところ一階建てだが、実は隠し二階がある。二階を隠しているのには理由がある。
屋敷の南側は廊下兼縁側になっており、廊下に沿って座敷が連続している。
書院造の座敷などがあり、ここが上級武士の屋敷であったことを物語っている。
ところで出石藩は、歌舞伎や講談の題材となった仙石騒動で有名である。
文政七年(1824年)、参勤の途中発病し、江戸で病死した藩主仙石政美の後継と藩の経営方針を巡って、家老仙石左京派と他派が9年に渡って争ったのが仙石騒動である。
天保六年(1835年)、騒動を知った幕府は、仙石左京以下31名の藩士を断罪し、出石藩の所領を半分に減らした。
仙石騒動は、江戸時代の三大お家騒動の一つとされている。
さて、家老屋敷には隠し二階がある。二階には12畳と7畳の二間がある。
隠し二階は、秘密の会議を開くのに使われた。もし会合中に敵に襲撃されれば逃げられるような仕掛けも施されている。
今は隠し二階に上がるための固定階段と手摺が設置されているが、江戸時代には梯子で上り下りしたことだろう。
上りきると、梯子を隠し二階に上げて、入口を天井板で塞いだ。外敵には、ここから二階に上ることが出来るなど、全くわからなかったことだろう。
さて、二階には二間あるが、奥の12畳の座敷からは、この隠し二階の出入り口が見えるように工夫されている。
奥座敷床の間前の座布団に座って右手を見ると、壁に空いた丸窓の先に、二階の出入り口が見える。誰が上り下りしたか把握できる仕掛けだ。
もし敵が侵入してきたら、上の写真左奥の押し入れから屋上に脱出することが出来る。
この押し入れの棚板は分厚く作っていて、人が上がっても底が抜けないようになっている。押し入れ奥の三角形の黒い板を外すと、外に出ることが出来る。
この出入り口は、緊急の脱出のためだけでなく、隠密の出入りにも使われたようだ。
ここを使えば、家人にも気づかれずに隠密が出入り出来るわけだ。
仙石騒動の時も、この隠し二階で謀議が行われたことだろう。
ところで出石では、毎年11月3日に、江戸時代の出石藩の大名行列の様子を再現した出石大名行列槍振りという行事が行われている。
江戸時代には、藩主は領国と江戸の屋敷の間を、大名行列を仕立てて往来した。
幕府は、各藩主に対し、妻子を江戸の屋敷に置くことを命じていた。人質である。
明治維新後、藩主は妻子を領国に連れ帰ってもいいということになった。
出石藩主は、妻子を連れて帰る行列を、江戸の赤坂奴(あかさかやっこ)を連れて盛大に行った。
赤坂奴とは、大名や旗本に仕え、行列の槍持ちや挟箱持ちをした若衆のことである。
出石の若者たちは、江戸から出石にやってきた赤坂奴から、行列での所作を習った。それが現代まで伝承され、行われているのが出石大名行列槍振りである。
江戸時代の大名行列の所作を現代に伝えるものとして、豊岡市指定文化財になっている。
家老屋敷には、江戸時代の出石城下の絵図と有子山城跡の空撮写真が展示されている。
出石城下の絵図を見て気づいたが、ロの字型に並んだ民家の中心に空きスペースがある。
共有の庭か、洗濯をしたり井戸水を汲んだりする社交の場だったことだろう。
有子山城跡の空撮写真は、壮大な城の遺構を一望の下に収めている。よくもあんなところまで登ったものだ。
さて、家老屋敷を出て北に行った出石町宵田に、維新の志士桂小五郎ゆかりの場所がある。
桂小五郎は、出石の町人甚助、直蔵の助けを得て、京を脱出し、出石で匿われた。
手打ち蕎麦よしむらの隣の、桂小五郎住居跡の石碑が建つ場所が、その時に桂小五郎が隠れ住んだ場所である。
その後の桂は、維新回天の功業を成し遂げ、明治には木戸孝允として活躍した。桂小五郎再生の場所が出石だったわけだ。
出石藩は小藩だが、小さいながら様々な歴史を持っている。
江戸時代には全国に約三百藩あったというが、各藩の成り立ちから維新を迎えた時の様子までを学んだら、面白いことであろう。