糘山

 剣戸古墳群の見学を終え、そこから西に車を走らせる。

 津山市神代にある糘山(すくもやま)という低山には、史跡が数多く点在している。

 糘山は、標高約262メートルで、山の南半分は、久米カントリークラブというゴルフ場である。

 糘山の西側を南北に通る県道159号線と、そこから山に向かう道が交わる交差点に、糘山の史跡を記載した地図が掲示してあった。

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糘山史跡地図

 この掲示板のある交差点から東に行くと、道沿いに6世紀後半から7世紀初頭かけて操業した大蔵(おおぞう)池南製鉄遺跡がある。

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大蔵池南製鉄遺跡

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大蔵池南製鉄遺跡

 ここは道路工事の結果発掘された遺跡で、6基の製鉄炉跡が発見された。また燃料置き場や灰捨て穴、鉄滓捨て場なども発掘された。

 一緒に出土した遺物から、6世紀後半から7世紀初頭の遺跡と判明した。聖徳太子が活躍した時代である。

 製鉄炉があったということは、この辺りでは砂鉄と燃料の木がよく取れたのだろう。

 糘山の南側には、4世紀前半~7世紀の前方後円墳約60基と横穴式石室を持つ円墳約60基を擁する糘山古墳群がある。

 大半が久米カントリークラブの中にあるので見学出来なかったため、糘山西斜面にある城谷上1号墳を訪れてみた。

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城谷上1号墳

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 城谷上1号墳の谷には、土偏が付くが、パソコンで表記されなかったので、便宜上谷と書く。

 因みに土偏の付く谷を「大漢和辞典」で調べてみたが、載っていなかった。この辞典に載っていないということは、少なくとも中国本土には存在しない漢字である。恐らくこの地域で造られた漢字だろう。

 糘山を横断する山背越という道を歩いて、糘山の山頂を目指した。山というより、低い丘陵のような糘山は、すぐ山頂近くまで行くことが出来る。

 山城越の峠近くに、天下茶屋跡という説明板があった。

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天下茶屋

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 江戸時代から明治時代にかけて、たいがいの峠には茶屋があったものだ。旅人は、峠を登り切って茶屋で一服した。

 この天下茶屋跡の向かい側に、千手観音の石仏があった。

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千手観音の石仏

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 石仏は半ば藪に覆われていた。藪を手で払いのけて写真に収めた。

 この千手観音の左脇の道を奥に進むと、糘山の山頂に至る。

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糘山山頂

 この山頂近くには、暗褐色の石が転がる集石遺構がある。

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集石遺構

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リンバーグ石

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 集石遺構周辺には、リンバーグ石という脆そうな溶岩石が転がっている。
 平安時代から鎌倉時代初期の祭祀遺跡と見られているそうだが、どういう遺跡なのだか分らなかった。
 さて、糘山から下りて、麓の津山市桑下にある鶴田(たづた)藩西御殿跡に行く。

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鶴田藩西御殿跡

 石見国浜田藩は、幕末の幕府による長州征伐で、幕府軍の石見口の先鋒部隊の一つとして守備に就いたが、村田蔵六(後の大村益次郎)率いる長州軍に敗れた。

 慶応二年(1866年)、浜田藩領は長州軍に占領され、藩主以下士卒は、杵築、松江に退いた。

 長州征伐終了後も、浜田藩領は長州に占領されたままだった。慶應三年(1867年)、浜田藩主松平武聰(たけあきら)以下の藩士は、浜田藩の飛び地であった美作国久米北条郡に移動し、そこで生活することになった。そして藩名を鶴田藩に変えた。

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西御殿跡の石碑と説明板

 しかしこれは、苦難の道の始まりであった。浜田藩は6万1千石の領地を持っていたが、久米の飛び地の石高は8,300石である。1/7以下になった藩の収入で、同じ数の家臣団を養うのはまことに厳しかっただろう。 

 明治4年(1871年)6月、藩主はこの桑下の地に陣屋を移した。それがこの西御殿跡である。

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西御殿跡

 西御殿跡は、津山市指定重要文化財になっている。

 しかし西御殿が出来た明治4年には、版籍奉還廃藩置県があり、鶴田藩は消滅し、藩主は東京に移住した。

 西御殿跡の一角に、長州征伐や戊辰戦争で亡くなった浜田(鶴田)藩士を慰霊する殉難碑があった。明治22年に建立された石碑である。

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殉難碑

 長州征伐における石見国での戦死者だけでなく、鳥羽伏見の戦い上野戦争での殉難者も刻まれていた。

 しかし殉難者の筆頭に刻まれていたのは、慶応四年(1868年)に京で切腹した尾関当遵(まさゆき)という家老の名であった。

 鳥羽伏見の戦い藩士の一部が幕府軍に参加して戦った鶴田藩は、明治維新後、新政府から朝敵の疑いをかけられた。

 当時、朝敵の疑いをかけられた藩は、藩主が上京して朝廷に謝罪し恭順の意を示すことで許されていた。

 しかし鶴田藩主松平武聰は病が篤く、上京することが出来なかった。鶴田藩に叛意がないことは理解していた新政府だが、例外を認めることが出来なかったため、鶴田藩に対し家老1名の切腹を命じた。

 鶴田藩の家臣の中からは、切腹を志願する者が続々と現れたが、尾関当遵は、自分が高齢で先がなく、藩の家老の中で石高が最も高いことから、自分が切腹することを譲らなかった。

 尾関の自決で藩は救われた。新政府は、叛意がない鶴田藩に家老切腹という重い処罰を与えた見返りに、鶴田藩の石高を加増した。鶴田藩は、浜田藩時代の6万1千石を回復することが出来た。

 西御殿跡には、「鶴田藩六萬一千石」と誇らかに刻んだ石碑が立っているが、これも尾関の自決のおかげだろう。

 尾関の自決の4年後に鶴田藩は消滅したのだから、尾関の死が無駄死にだという見方もあるだろう。

 今では尾関が見せた意地は忘れ去られ、この殉難碑を省みる人もほとんどないだろうが、人が命を賭けて見せた意地は、天地のどこかに永久に刻まれているのではないかと思いたくなる。