生野銀山は、大同二年(807年)に初めて発見されたと伝えられる。
元禄年間に成立した「銀山旧記」によれば、天文十一年(1542年)に、山名祐豊が生野銀山を開鉱し、古城山麓に生野城を建てて銀山を管理するようになった。
山名氏衰退後は、竹田城主太田垣氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏と支配者が変った。銀山が莫大な富を生むため、豊臣、徳川政権は銀山を直轄地とした。
明治維新後、銀山は明治政府の直轄地となる。
生野銀山の入口には、菊の御紋の入った門柱がある。
この門柱は、生野銀山の技師としてフランスから招かれて、生野銀山の責任者となった地質学者コワニエが、明治9年に当時の工場正門の門柱として製造したもので、昭和52年に現在位置に移転された。
門柱に輝く菊の御紋が、ここが政府直轄地だったことを示している。
門柱の前には、明延1円電車が展示されている。
昭和4年に、兵庫県養父郡大屋町の明延鉱山と朝来郡朝来町の神子畑選鉱場の間の鉱石運搬のため、明神電車が開通した。
昭和20年に、従業員と家族の運搬のため、鉱石電車に客車が連結された。当初は運賃50銭だったが、昭和27年に料金が改訂され、1円となった。
昭和62年3月の明延鉱山の廃鉱、明神電車の廃線まで、料金はずっと1円に据え置かれた。
なのでこの電車は、明延1円電車という通称で呼ばれ、地元民から愛されていた。
一度動く1円電車に乗ってみたいものだ。
さて門柱を潜って左手を見ると、生野鉱物館がある。
生野鉱物館は、生野銀山の歴史を紹介するパネルや、様々な鉱物を展示している。
生野銀山は、島根県の石見銀山と並んで、中世、近世には日本有数の銀山であった。慶長二年(1597年)には、生野銀山が産出した運上銀は、全国の78パーセントを占めたという。
生野銀山からは、銀だけでなく、銅、亜鉛、鉛、錫なども産出された。
日本の鉱脈鉱床は、日本列島がまだユーラシア大陸の一部だった白亜紀末(約8000万年ころ)に形成されたようだ。
戦国時代、安土桃山時代、江戸時代にかけて、日本は世界有数の銀産出国となった。日本は昔は資源小国ではなかったのだ。
しかし採掘が進むにつれて鉱床は枯渇し、昭和48年に生野銀山は閉鉱となった。
生野鉱物館を出て進むと、生野代官所の門を模した生野銀山の入口がある。
入口から入って右手には、かつての坑道の跡があり、中に鉱業守護の神様である金山彦神を祭った山神宮分社がある。
この山神宮分社のある旧坑は、江戸時代末期に手掘りで掘られたものである。付近の岩盤に掘られた無数の穴は、穿岩機によって試し掘りされたものだという。
ところで、上の写真に鑿を用いて岩盤に穴を掘っているマネキン人形が写っているが、生野銀山では、各所でマネキン人形を用いて、かつての坑内の作業を再現している。
これから少しづつ、日本に莫大な富を齎した生野銀山を紹介していきたい。