鳥取市尚徳町の北西角に、鳥取藩の重臣箕浦家の屋敷にあった箕浦家武家門がある。
箕浦家は、鳥取藩の番頭格だった家で、箕浦家屋敷は現在の鳥取市立久松小学校の敷地にあった。
箕浦家武家門は、明治時代半ばから、箕浦家屋敷跡に建築された久松小学校の校門として利用されたが、昭和11年に鳥取師範学校(現鳥取大学)の増改築に際し、同校の校門として現在地に移転された。
門はなまこ壁を有する漆喰塗の長屋門で、門の左右には門番が控えた部屋がある。
箕浦家武家門は、昭和18年の鳥取大地震、昭和27年の鳥取大火災を生き残り、現在に伝えられた。
箕浦家武家門のある鳥取市尚徳町は、鳥取県立図書館、鳥取県立公文書館、鳥取文化会館などが建つ鳥取市の文教地区であるが、鳥取藩主池田重寛(しげひろ)が宝暦七年(1757年)に建てた藩校尚徳館が地名の由来になっている。
武家門の西側に、万延元年(1860年)に鳥取藩最後の藩主池田慶徳が建てた尚徳館記碑がある。
この石碑の周縁には、絵師根本幽峨による「雲龍の画」が刻まれている。
尚徳館の跡地は、鳥取師範学校を経て鳥取大学付属小中学校の敷地になったようだ。
尚徳館記碑の横に、「師範教育発祥之地」「鳥取大学付属小中学校跡地」の碑がある。
香川景樹は、明和五年(1768年)から天保十四年(1843年)までを生きた人物で、号を桂園と言った。
「古今和歌集」のような伝統的で平易な歌風を再興しようとした。景樹の創始した流派は桂園派と呼ばれた。
歌碑には、香川景樹の「敷島の 歌の荒樔田 あれにけり あらすきかへせ 歌のあらす田」という歌が刻まれている。
「古今和歌集」のような「春は花」「夏は時鳥」「秋は紅葉」「冬は雪」というような、和歌のど真ん中と言ってよい伝統的歌風が衰えたのを嘆き、荒れた歌の田を鋤き返すことを望んだ歌である。
だが明治になって、歌の革新を唱える与謝野鉄幹や正岡子規らによって、桂園派の歌は批判を浴び、伝統的歌風は一挙に衰えることになった。
だが桂園派が目指したような「古今和歌集」のような雅の世界は、日本文化の正午である。四季の景物に心情を託すこのような古典的世界があるからこそ、斬新な歌が生きてくるのである。
そもそも古典がなければ、革新は存在しないのである。
箕浦家武家門の南にある鳥取県立図書館の建物の脇に、鳥取藩が生んだ法律家岸本辰雄の胸像がある。
岸本辰雄は、嘉永四年(1851年)に鳥取藩士の子として生まれ、藩校尚徳館で学んだ後、明治3年に藩を代表して大学南校(現東京大学)の貢進生になった。
明治5年、新設の司法省法学校で学んだ後、パリ大学に留学し、法律学士の学位を得て帰国、大審院判事となる。
明治14年には、明治法律学校(現明治大学)を創立し、初代校長となった。
岸本辰雄の胸像から少し南に行くと、平成20年に建立された「ハンセン病強制隔離への反省と誓いの碑」がある。
当ブログ令和2年1月11日の記事「虫明 長島」で紹介したように、昭和6年から平成8年までの65年間、ハンセン病に罹った者は、国の法律により強制的に施設に隔離され、一度隔離されると死ぬまで施設を出ることが出来なかった。
今にしてみれば、ハンセン病への誤解が元でこのような法律が長年施行されていたわけで、そんな病気への誤解と偏見のために施設に隔離され、家族にも会えなくなり、家族と同じ墓にも入れなくなった人たちの苦しみは想像を絶するものである。
人生に苦しみは付き物だが、出来ることなら理不尽な苦しみはなるべく少なくしていくべきではないかと思う。