三日月

 かつて兵庫県佐用郡三日月町という自治体があったが、平成17年に、佐用郡佐用町に合併された。

 旧三日月町周辺は、江戸時代には三日月藩という藩が領域支配していた。 

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三日月藩乃井野陣屋跡

 元禄十年(1697年)、幕府は、津山藩森家の改易に伴い、分家の森長俊に播磨国三日月1万5千石への所領替えを命じる。翌年に三日月に入領した長俊は、山麓扇状地である乃井野を適地として、ここに陣屋を作った。

 三日月藩森家は、明治維新後の廃藩置県まで、代々三日月藩主を務めた。

 今、乃井野の地に建つ陣屋跡は、平成8年以降の発掘成果を元に復元されたもので、平成17年に完成した。

 復元されたのは、陣屋門と物見櫓である。

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物見櫓

 新築復元された建物の中で、物見櫓だけは唯一江戸時代からの遺構である。

 物見櫓は、寛政三年(1791年)以前に出来た建物で、廃藩置県後はあちこちに移築され、小学校や村役場、公民館の建物として利用された。

 平成13年に、礎石などを発掘調査して、現在のように元の位置に移築された。

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物見櫓の裏側

 物見櫓は、土日には公開されているが、私が訪れたのは平日だったので、中には入れなかった。

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中御門

 復元された中御門なども、なかなか立派であった。

 陣屋門の裏手には、かつての藩庁があった広大な扇状地が広がる。

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藩庁の跡地

 乃井野陣屋跡の隣に、歴代藩主を祀る列祖神社があるが、その隣に広業館という建物があった。

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広業館

 中を覗くと、柔道の畳が敷いてあり、武道場として今も使われているような様子だった。

 説明書きによると、広業館は、三日月藩の藩校として建てられたが、明治になって、建物の一部が移築されて小学校舎となった。昭和55年に、建物は列祖神社境内に移築され、記念館として保存されることになったという。

 見るからに昔の小学校校舎で、三日月藩の藩校時代の建物がどこに残っているのかは分からない。

 広業館は、「兵庫県の歴史散歩」にも記載がなく、来てたまたま見つけたものである。何だか得をした気分になる。

 乃井野陣屋跡から少し北に行くと、最明寺という寺がある。ここには、国指定重要文化財北条時頼座像がある。

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北条時頼座像収蔵庫

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北条時頼座像説明板

 この最明寺は、鎌倉幕府の五代執権の北条時頼が出家後に訪れて、自らの座像を彫って置いていったという寺である。

 北条時頼は、仏門に入り、最明寺入道と号した。旅僧として諸国を行脚し、正元元年(1259年)から文応元年(1260年)にかけて、3カ月この地に滞在した。村人の庇護を受け、この地を立ち去る際に、和歌一首と座像一体を残していったという。

 時頼は、執権時代は裁判制度強化に努め、幕権の強化を図った。後世、名君と呼ばれた。

 最明寺の北条時頼座像は、カツラの寄木造で、僧体の像である。鎌倉後期の優作であるらしいが、見ることが出来ない。

 乃井野の陣屋から西に行き、新宿の集落に入る。この辺りは、かつての美作道の中川駅があったとされる場所である。

 中川駅の遺跡は発掘されていないが、昭和35年に新宿の集落の山裾で発見された新宿宝篋印塔の銘に、「播磨国中津川」と刻まれていたため、この辺りが中川であることが確認された。

 新宿宝篋印塔を見に行ったが、何と倒れていた。

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倒れた新宿宝篋印塔

 人為的なのか、自然現象なのかは分からないが、悲しむべきことである。兵庫県指定文化財であるため、兵庫県教育委員会に連絡でもしようかと思う。 

 新宿宝篋印塔には、嘉慶二年(1388年)と刻まれており、そのころにはこの地域は中津川と呼ばれていたことが分かる。

 昨今の市町村合併で、古くからの地名がどんどん消滅しているが、1000年後には、今何気なく使っているものが、過去の地名を特定する有力情報になるかも知れない。

 新宿の集落には、考古資料が出土した高畑古墳の跡地がある。

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高畑古墳跡

 また、古墳近くの葡萄畑の中に、新宿廃寺の跡がある。今は、当時の礎石が置かれているだけである。出土した瓦の文様から、奈良時代の寺院跡であると分かった。

 当時は、駅の近くには寺が建てられていた。ここに廃寺があるということは、やはり中川宿もこの近くにあったのだろう。

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新宿廃寺の礎石

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礎石

 最近、遺跡の上に下手に新しい建物を再建されるより、こういう剥き出しの礎石だけがある方がいいと思うようになってきた。かつてこの上に建物の柱が立っていたと想像する方がわくわくする。

 礎石の上に、誰が置いたのかは分からないが、付近から出土したと思われる当時の瓦片と土器片が置かれていた。

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礎石の上の瓦と土器片

 こんな瓦片や土器片を見て愛しいと思うようになってきたら、好古癖も行きすぎなのだろうか。

 いずれにしろ、人々が生きてきたという事実は、尊重すべきものである。