射楯兵主神社を見終わり、姫路市山野井にある姫路文学館に行く。
ここは、播州ゆかりの文学者である、和辻哲郎や椎名麟三、又祖先が播州出身だった司馬遼太郎の資料などが展示してある。
私が訪れたのは月曜日で、休館日であった。姫路文学館には北館と南館があり、両方安藤忠雄氏の建築である。こういうモダンな建物が、文化財として見做される日が来るのだろうか。
姫路文学館は、元々姫路屈指の実業家である濱本八治郎の敷地跡に建てられている。濱本八治郎の別邸として建っていた邸宅が、現在望景亭という名称で残っている。国登録有形文化財に登録され、無料公開されている。
望景亭は、大正初期に完成した和風建築である。
中に入れないのが残念である。しかし、姫路城天守を振り返り、心を慰める。
姫路市では、条例により、姫路城大天守よりも高い建物を建てることが出来ない。姫路市にはタワーマンションは建てられないのだ。なので、お城から離れていても、ふとした建物の隙間から、天守が見えたりする。
気を取り直し、姫路市新在家本町にある、兵庫県立大学環境人間学部を訪れる。
ここは、かつての旧制姫路高等学校があった場所である。
旧制高等学校とは、旧帝国大学の予科としての役割を受け持ち、戦後の高等学校とは全く異なる。
帝国大学では、英語やドイツ語を使った専門的な授業を行うので、予科である高等学校のうちにそれらに備えた教育をみっちり行う必要があった。全国の旧制高等学校卒業生の人数と、帝国大学の入学定員がほとんど同じだったので、戦前は旧制高校に入ればほぼ無試験で帝国大学に入学できたという。昔は、旧制高校に入学することがエリートの証であった。
入学すれば、もう将来が約束されたようなものなので、入学後は勉強せずに遊ぶ学生も多かったという。
教育内容も、今の高校教育とは異なり、大学の一般教養課程に近い内容だったという。
旧制姫路高等学校は、大正7年の高等学校令に基づいて、大正12年に開学した。
旧制姫路高校の本館と講堂が、現在の兵庫県立大学環境人間学部のキャンパスに残っている。今では、本館を「ゆりの木会館」と呼ぶ。
ゆりの木会館前の門柱は、姫路高等学校時代から残っているものである。
大学構内に入り、守衛さんに質問すると、ゆりの木会館と講堂は、外からなら写真撮影はしても良いとのことだった。
ゆりの木会館は、アーチ状の廊下と白いペンキで塗られた木製の壁が瀟洒で美しい。
まさに学問の府、といったところである。
講堂は、堂々たる建築物である。
旧制高等学校は、大正7年の高等学校令で、全国に多数出来たが、戦後の教育改革で、昭和25年に廃止となった。
旧制高校は、戦後に廃止となってからは、旧制大学に吸収されるか、戦後に出来た新制大学の教養学部や文理学部の母体となった。ほとんどの旧制高校が、現在各都道府県にある国立大学の母体となった。姫路高等学校は、戦後神戸大学教養学部の姫路分校となる。
神戸大学姫路分校は、昭和40年に神戸市灘区六甲台に移転した。その後旧制姫路高等学校の本館と講堂を受け継いだのは、兵庫県立姫路短期大学である。姫路短期大学は、平成10年度に兵庫県立姫路工業大学環境人間学部に吸収され、今はその後身である兵庫県立大学が姫路高等学校の本館と講堂を管理している。
旧制高校の学生の典型的なスタイルが、「バンカラ」と呼ばれた、白線入り学生帽にマント、高下駄という姿である。彼らはこの姿で寮歌を高吟して街を歩いた。講堂前の姫路高等学校の学生の銅像が、旧制高校の学生の典型的な姿を表している。
旧制高校学生の粗野で野蛮な見てくれは、外見にとらわれずに真理を追究する学徒としての誇りと自負と気概に満ちたものである。
全国に旧制高校の遺構が残っているが、近代の文化遺産の仲間入りをしている建物もあるだろう。古い校舎というのも、いいものである。