聖廟の東隣には、池田光政公を祀る閑谷神社がある。別名芳烈祠という。
閑谷神社本殿は、現在修復工事中で、境内には入ることが出来なかった。
神社建築である拝殿に華頭窓があるのは、なかなか珍しい。拝観できないのは残念だが仕方がない。
本殿には、池田光政公の座像が御神体として祀ってある。隣の聖廟とは、敷地の面積や形、建物の配置がほぼ同じである。岡山藩としては、孔子と藩祖光政公を同じように祀ったのであろう。
閑谷学校の東隣には、400本近い藪椿を植えた椿山という一角がある。この奥に、池田光政公の頭髪や爪、歯を埋めた供養塚「御納所」がある。
椿が茂ってトンネルのようになっている。藪椿が咲く季節には、さぞや壮観だろう。さて、椿のトンネルを抜けると、御納所がある。
光政の墓は和意谷にあるが、髪や爪といった体の一部は閑谷学校の傍に埋められている。光政本人がそうさせたのか、残された家族や家臣がそうしたのかは分からないが、生前の光政が領内で最も気に掛けていた場所が閑谷学校だったのだろう。
閑谷学校から少しばかり東に歩くと、閑谷学校の設計者、津田永忠の屋敷跡がある。津田永忠宅跡として、国指定特別史跡になっている。
永忠は、隠居後、この地に屋敷を建てて静かに余生を暮らした。今や屋敷はなく、石垣が残るばかりである。永忠も、晩年は藩の儒学教育の中心である閑谷学校の側で生活することを望んだのだろう。
津田永忠宅跡から、更に東に行くと、茶室黄葉亭がある。ここは、文化十年(1813年)に、閑谷学校に来た文人墨客をもてなすために建てられた茶室である。
今は、茅葺屋根が傷んで、屋根にブルーシートが掛けられている。
文化十一年(1814年)には、ここに頼山陽が来た。頼山陽は「黄葉亭記」を残している。
閑谷学校から南に行くと、閑谷学校の瓦などを焼いていた窯を利用して始められた閑谷焼の窯跡があるという。
探してみたが、その場所は民家の裏にあり、民家の敷地を通らなければ行くことが無理な場所であったので、見学は諦めた。
備前焼は釉薬を使わない焼き締めで陶器を作るが、閑谷焼は、釉薬を用いていたという。閑谷焼は、安永九年(1780年)ころには廃絶したそうだ。
閑谷学校から南に1キロメートルほど行くと、道脇に閑谷学校の石門がある。石門が建てられたのは、元禄十年(1697年)である。石門は、今や大半が地中に埋まってしまって、地表には高さ1メートルほどしか出ていない。
この二柱の石門の間に、かつては閑谷学校に通ずる道が通っていた。
説明板を見ると、石門は江戸時代には、地表から約3.3メートルは出ていたらしい。
説明板には、昭和6年の石門の写真が載っている。この時でも、石門は写っている学生よりも高いので、地表から2メートルは露出していたであろう。この90年ばかりで、急激に埋没したのが分かる。
人為的に埋められたのか、自然現象で埋没が進んでいるのかは分からない。このまま放置すれば、いずれ石門全体が地下に没してしまいそうだ。
現在繁栄している人類の生活の痕跡は、はるか遠い将来には、全て地中に埋まってしまうだろう。恐竜の生きた痕跡が現在地表には残っていないように。
埋まりつつある石門の横を通過する車の音を聞きながら、ふとそんなことを考えた。