岡山市御津郷土歴史資料館

 東武藤家の邸宅跡である「さかぐらKANAGAWA」の見学を終えると、次は西武藤家の邸宅跡に建つ岡山市御津郷土歴史資料館に向かった。

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岡山市御津郷土歴史資料館

 岡山県御津郡御津町が、武藤家から金川のシンボルでもあった西武藤邸を譲り受け、その土地に建てた資料館である。

 御津郡御津町は、平成15年に岡山市に合併され、今は岡山市が管理運営している。

 資料館には、旧御津町域の遺跡や古墳から発掘された遺物の他に、金川出身の3人の人物、片山義雄、瀧善三郎、難波抱節に関する資料と、金川出身の書家栢菅純美(かやすがすみよし)氏の作品や収集品を展示している。

 この中で、難波抱節については、次回の妙覚寺の記事で紹介する。

 まずは片山義雄兵曹長について紹介する。

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片山義雄兵曹長の展示コーナー

 片山義雄は、海軍の兵曹長であった。

 昭和16年12月8日の真珠湾攻撃に際し、特殊潜航艇甲標的甲型に乗船し、水中から米艦船を攻撃する作戦に従事し、そのまま帰らぬ人となった。享年24。

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日本海軍の特殊潜航艇

 真珠湾攻撃に際しては、母艦の伊号潜水艦から発進した甲標的5隻が真珠湾内に侵入し、米艦艇に魚雷攻撃を実施したが、1隻は攻撃後座礁し、乗員1名が捕虜となった。対米戦争初の捕虜だった。1隻は攻撃後自沈、3隻は敵に撃沈された。5隻とも帰還しなかった。

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伊号潜水艦の模型

 甲標的には、1隻に2名が乗船していた。攻撃に参加した10名の内、捕虜となった1名を除く9名は戦死した。9名は軍神として崇められることになった。

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片山兵曹長の像

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片山兵曹長に下賜された勲章

 特殊潜航艇は、一度発進すると、母艦に帰還することは困難だった。当時の日本軍は、敵の捕虜になることを恥としていたため、特殊潜航艇による作戦は、戦死か自決を前提とした作戦だった。後の特別攻撃隊による作戦の先駆けと言ってもよい。

 展示コーナーには、片山兵曹長が両親に宛てた遺書が展示してあった。

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片山兵曹長の遺書

 一部を抜粋すると、こうある。

義雄は元気で軍人の本分を成し遂げて、祖国の為に船諸共先陣の花と散ります。人間一度は必ず死すもの、既に場所得たる義雄は幸福です。(中略)いかなる戦功なるかは発表ありませんでしょうが、(戦死)(殉死)御力落としなく。一人の死よりも日本海軍の軍機大切。

 特殊潜航艇による作戦は、軍事機密であったため、片山兵曹長は功あったとしても自分たちの作戦の公表はないものと知っていたのである。それにもかかわらず従容として死を受け入れている。

 戦争の是非についてはここでは書かないが、少なくとも国家は、国のために死んだ兵士に対しては、敬意をもって鄭重な扱いをしなければならない。そうでなければ、兵士は士気を維持し、戦うことが出来ない。

 今、ロシアとウクライナとの戦争で、ロシア政府が自国の兵士が続々と戦死しているのを国民に知られないようにするため、情報統制し、戦死した兵士の遺体を密かに埋葬しているという。

 自国のために戦死した兵士を鄭重に扱わない国家は長くは続かない。この一事だけ捉えても、今のロシア政府の命運がどうなるかは知れている。

 ところで片山兵曹長が乗船していたと思われる甲標的甲型は、ハワイ大学の調査により、平成14年に発見された。片山兵曹長は、61年間海底で発見されずに過ごしたのである。

 さて、金川の地は、神戸事件の責任を取って自決した瀧善三郎の出身地である。

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瀧善三郎自決の図

 慶応四年(1868年)一月十一日、神戸三宮を通行中の岡山藩の隊列を、フランスの水兵2名が横切った。

 隊列にいた瀧は、槍でフランス兵を制止し軽傷を負わせた。これに対しフランス兵がピストルを発射したため、岡山藩士も応戦し銃撃戦になった。

 幸い死者は出なかったが、神戸居留地にいたイギリス公使パークスは激怒し、港内に停泊していた英仏艦から陸戦隊を上陸させ、神戸中心地を占拠した。

 そして日本政府に陳謝と賠償、関係者の処罰を求め、これに応じなければ敵対したとみなすと通告した。

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瀧が自決に用いた短刀と介錯に用いられた刀

 幕府から大政奉還を受けていた朝廷は、当時まだ攘夷の方針を示していた。

 また朝廷は、幕府に代わって正当な日本の政府になったという承諾を諸外国から受けておらず、外交上の難問に立ち向かった経験もなかった。

 結果、朝廷は英仏の要求を全面的に受け入れるしかなく、攘夷の方針を撤回して開国和親を宣言し、瀧の自決で事件の幕引きを図ろうとした。

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瀧善三郎の両親宛ての遺書

 まだ日本では攘夷の世論が強かったので、この弱腰外交が漏れると明治新政府は窮地に立つことが必定だったため、政府は緘口令をしいた。

 そのため明治大正期には、瀧の地元の金川でも神戸事件について知る人がいなかったという。

 もしこの時明治新政府が強硬措置を取っていたら、おそらく英仏軍によって神戸の占領が継続されて、神戸が香港やマカオのように外国の借地になっていたかも知れない。それだけでなく日本全土が欧米列強の影響下に置かれていたかも知れない。

 瀧善三郎の自決は、日本の命運を大きく変えたと言ってもよい。

 私は今までの史跡巡りで、瀧善三郎の墓と自決の地を訪ね、今出身地を訪ねた。今後神戸事件の舞台を訪ねることになるだろう。

 館には、金川出身の書家栢菅純美氏の収集品と作品が展示されている。

 栢菅氏は、大正7年生まれで、御存命なら今104歳である。昭和45年に厳島神社の国宝「平家納経」を拝観して写経に関心を持ち、日本の多くの寺社に写経を納経したという。

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栢菅氏が写経した平家納経風の「妙法蓮華経

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栢菅氏が写経した妙法蓮華経

 栢菅氏は、厳島神社の平家納経に倣って、「妙法蓮華経」全巻を写経している。一部展示してあったが、丁寧で格調高い楷書であった。

 また、栢菅氏が集めた、「妙法蓮華経」を刻んだ平安時代の瓦経があった。

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平安時代の瓦経

 日本では、永正七年(1052年)から末法の世に入ったとされた。釈迦入滅後56億7千万年後に弥勒菩薩が現れて仏教を復興するまで、経典を残そうと考えた貴族たちが、陶板や銅板に経を彫り、経塚に埋めた。

 この瓦経も経塚に埋められたものの一つだろう。

 また、犬養木堂犬養毅)や頼山陽の書の掛け軸もあった。

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頼山陽の書

 頼山陽は名を襄(ゆずる)といった。江戸時代後期に山陽が著した「日本外史」は、日本の武家政権の歴史を和風漢文で書いた通俗歴史書だが、その血沸き肉躍る名文のため、幕末にベストセラーになり、尊王の志士のバイブル的存在になった。

 現代で言うなら、司馬遼太郎の小説を政治家や経済人が愛読しているようなものか。

 頼山陽の書は、その人柄を現すような、奔放な書である。

 金川は小さな陣屋町だが、御津郷土歴史資料館を訪れたことにより、この小さな町にも忘れてはならない歴史が存在することを教えられた。