薬師院の参拝を終え、再び西川緑道公園に戻った。
西川橋から公園を北上してしばらく行くと、右手に岡ビルという昭和レトロなビルが見えてくる。
ここは地元の人で賑わう、魚などの小売り市場であるらしい。
江戸時代には、この岡ビルの建つ岡山市北区野田屋町1丁目付近に、岡山藩の家老天城池田氏の屋敷があった。天城屋敷と呼ばれた。
明治時代の民権家福田英子は、慶応元年(1865年)、天城屋敷の一角で生まれた。
岡ビル北側の野田屋町公園には、福田英子の顕彰碑が建っている。
福田英子は、岡山藩の下級武士の子として生まれた。旧姓は景山である。
幼い時に明治の変動期を迎え、長じて母と共に女性教育に携わった。
岡山県議会の開設に伴い、自由民権運動が岡山でも盛り上がった。英子は、人間平等、男女同権を唱え、女権運動の先駆者となったそうだ。
現代では、自由や人権は当たり前のものになっているが、決して自動的に与えられたものではない。
我々が自由な生活を満喫できるのも、先人の苦労の積み重ねのおかげと言える。これを維持していくのも、我々の務めだろう。
また、福田屋町公園には、岡山の学校法人、関西(かんぜい)学園発祥の地の石碑もある。
再び西川緑道公園を北上する。
北に向かって歩くにつれ、人通りも少なく、静かな雰囲気になってきた。
国道180号線を越えてしばらく行くと、西川緑道公園は終点に達する。
終点の歩道上にはお地蔵様が祀られていた。感謝の気持ちを込めて手を合わせた。
ここから北東に歩いて、岡山市北区南方3丁目の吉備路文学館に行った。
吉備路文学館は、岡山ゆかりの文学者の資料や原稿、書簡などを保管展示する施設である。
私が訪れた日は、「吉備路の文学者と猫」という特別展を行っていた。
内田百閒、西東三鬼、藤原審爾、時実新子、小手鞠るい、吉行理恵などの文学者が、著作中で猫に触れた箇所を中心に、書籍、原稿、書簡などの資料を展示していた。
この中で、俳人西東三鬼(さいとうさんき)は、俳句はあまり好きではないが、最近新潮文庫から出たこの人の散文作品「神戸・続神戸」を書店で何気なく手に取って読んでみて、モダンでテンポのいい文章を面白いと思った。
1階では、企画展「吉備路近代文学の7人展」が展示されていた。
吉備路ゆかりの森田思軒、井上通泰、本山荻舟、正宗敦夫、志賀直哉、赤木桁平、住宅顕信の資料を展示していた。
森田思軒(しけん)は、明治時代に活躍した翻訳家で、単著として頼山陽の伝記「頼山陽及其時代」を著した人だ。
私がこの世で一番好きな書物、森鷗外の「伊澤蘭軒」の冒頭に出てくる人なので、興味があったが、写真を見てその男前なのに驚いた。
さて、吉備路文学館を後にして、その南にある岡山県立記録資料館に立ち寄った。
ここは、岡山の歴史資料などを保管している施設で、閲覧室に行くと、岡山県内各自治体が編纂した市史や町史などの叢書が全て揃っていた。岡山県の郷土史を研究するなら、ここは外せないだろう。
私が訪れた日は、「子どもへのまなざし」という企画展が開かれていた。
岡山県子ども家庭課と岡山県児童相談所の共催による展示で、江戸時代の子育ての模様を知ることが出来る書籍や資料、明治時代以降の孤児院に関する資料が展示してあった。
江戸時代には、貧しくて子供が育てられないので、生まれた子供を親が殺害する「間引き」が行われていたが、津山藩が間引き禁止を領民に通達する触れ状などもあった。
津山藩は、苛酷な年貢の取り立てを行ったことで知られるが、触れ状を出すなら年貢を減免したらよかったのにと思った。
子供を世の中全体の宝として、世の中全体で育てていく気持ちを持つことは、今よりもいい社会を築いていく上で、必要なことであると思う。
大人の一人として、今の子供世代が「生きてきてよかった」と思える世の中を築くのに、何が出来るのか考えてみた。