今日は、岡山市北区磨屋町にある3つの寺院を紹介する。
西川緑道公園を北上し、桶屋橋の東詰に至るとそこを右折する。真っ直ぐ歩くと天台宗の寺院、柴岡山光珍寺がある。
ご覧のとおりの鉄筋コンクリートの建物で、見たところ、お寺と言うよりマンションかホテルのように見える。
光珍寺は、元々隣接する岡山寺の一部であった。
岡山寺は、天平勝宝元年(749年)に、報恩大師が勅命を奉じて創建した備前四十八ヶ寺の一つである。
岡山寺は、元々岡山城内にあったとされているが、天正元年(1573年)に岡山城主となった宇喜多直家が、古京町から中山下に移転させた。その時、直家は、岡山寺の一部を父興家(露月光珍居士)の菩提所とし、父の戒名を取って光珍寺とした。
その後、関ヶ原の戦いに敗れた直家の子、宇喜多秀家は八丈島へ流された。
光珍寺は、慶長六年(1601年)の小早川秀秋の入国にあたって、もとの岡山寺へと復号した。
慶長十六年(1611年)、岡山寺は、岡山藩主池田忠雄の時代に磨屋町へ移された。
慶安五年(1652年)寺院の管理に関する公示により、寺は岡山寺光珍寺(現在の光珍寺)と岡山寺観音坊(現在の岡山寺)に分かれ、現在に至る。
昭和20年6月29日の岡山大空襲により、伽藍だけでなく、伝空海作の愛染明王像、宇喜多直家木像、宇喜多一族の位牌なども焼失した。
唯一古そうなものとして、寺の表に天保十二年(1842年)の銘のある灯籠があった。
灯籠には、「東叡山 文恭院殿尊前」と刻まれている。東叡山は東京上野の寛永寺のことで、文恭院殿は、徳川第11代将軍家斉のことである。寛永寺は、徳川将軍の菩提寺である。
寛永寺に献納された灯籠は、あちこちに流出しているようで、この灯籠も元々家斉の墓前に供えられていたものが、何かの縁でここに至ったのだろう。
さて、光珍寺の西隣にある金光山岡山寺に行く。ここも天台宗の寺院だ。
この寺も、昭和20年6月29日の空襲で、本堂、如来堂、三王堂、客殿、庫裡などが焼けてしまった。
本尊の十一面千手観世音菩薩像はかろうじて残った。
今の本堂は、戦後に建てられたものだ。
境内に、古そうな石造五輪塔があった。
この石造五輪塔は、天正九年(1581年)に建てられた、宇喜多直家供養五輪塔である。
形がいびつで表面がざらざらしたこの石造五輪塔は、如何にも乱世の梟雄宇喜多直家の供養塔に相応しいものだった。
境内に灯籠か何かの礎石があったが、古そうな石造物で、元々上に何が載っていたのか気になった。
さて、岡山寺から道路を挟んで北側にあるのが、真言宗の寺院、平医山薬師院である。
本尊は、金銅仏の薬師瑠璃光如来である。
昔、備前平井山の沖合が金色に光っていたので、地元民が海中に網を投げ入れると、金色に光り輝く今の本尊が引き上げられたという。
人々はこの薬師如来像を崇め、像を安置するために荘厳な一堂宇を建てた。それが薬師院である。
薬師院も、昭和20年6月29日の空襲で、伽藍の全てが焼失した。本尊だけは事前に避難していて無事だった。
境内は、綺麗に草木が整備されて美しかった。
今日は、昭和20年6月29日の岡山大空襲で焼失した3つの寺院を訪問した。
日本の大都市の寺社は、大半が空襲で焼けてしまっていて、戦後に鉄筋コンクリート製の建物として再建されたものが多い。
戦前の古い木造建築物が残っていないのは残念だが、これも歴史の一コマである。
新しい伽藍を見て、私には、むしろ戦後日本人の逞しさが感じられて、好ましく思えた。