当ブログ今年2月3日の「旧勝北町の史跡」の記事で、津山市役所勝北支所の前にある宝篋印塔二基を紹介した。
この辺りからは昭和57年の国道53号線拡幅工事の際に、中世の墓地の遺跡が見つかった。観音堂遺跡という。
骨蔵器は、どっしりした渋い味わいの壺だ。津山市指定重要文化財である。
将来自分が墓に入ることを考えると、生前どんな生活をしていようと最後はただ骨壺に入る骨になるわけだから、自分の骨壺くらい生前に選んでおいてもいいと思った。
青磁碗は、12世紀前半の中国南宋の時代に、浙江省龍泉窯で焼かれたものと言われている。
津山藩の初代藩主森忠政は、大坂冬の陣、夏の陣に出陣した。冬の陣は、非常な激戦となり、徳川方は力では大坂方を屈服させることは出来なかった。
東軍は、鉄砲の弾避けに竹束を用いたが、激しい銃撃に対応できず、多くの死傷者が出た。
家康は弾避けとして諸大名に鉄盾を与えたが、森忠政にも鉄盾が与えられた。
鉄盾には、弾痕があり、戦いの激しさを物語っている。鉄盾は、津山城下の鎮守である徳守神社が所有しており、津山市指定文化財となっている。
森家の次に津山藩主となった越前松平家の祖先である松平忠直率いる越前勢は、大坂夏の陣で真田幸村を討ち取り、大坂城一番乗りの武勲を上げた。そのことは津山藩松平家の誇りだったのだろう。
大坂夏の陣の部隊配置を描いた「元和元年五月御陣図」が藩に伝えられていて、今ここに展示されている。
展示品の中で一際目を惹くのは、広島大学工学部が作成した津山城の復元模型である。
この模型は、150分の1のサイズで制作されているが、高さは視覚的効果を高めるため、約1割増しの136分の1のサイズで再現されている。
津山城の天守は五層五階の楼閣だが、幕府が津山城の天守が五層あることを見咎めたので、藩は四層に見せかけるため、四階の屋根だけ板葺きにしたと伝えられている。
もしこの城の遺構が全て残っていたら、確実に国宝に指定されていただろうと思う。惜しい事だ。
模型の横には、津山城本丸建物の上に載っていた本丸瓦があった。
津山藩は、文献資料も多く残している。享和二年(1802年)の津山藩松平家の町奉行日記などの日記類が展示してあった。
町奉行日記の赤い矢印で示している行に、城下で疱瘡が流行したことが書いている。医学が発達していない当時は、伝染病への恐怖感も今と比べられないほど強かっただろう。
また、津山藩松平家が、参勤交代の際に、藩主の乗る輿に近い武士に持たせていた熊毛槍鞘が展示されていた。
熊毛槍鞘は、文字通り槍の鞘を熊毛で装飾したものである。
江戸時代に入って、戦乱の世が遠ざかると、槍が実戦で使われることがなくなり、段々と装飾品としての要素が出て来た。
大名行列が通る時、最も目立つのは、高い位置に掲げられる槍鞘である。諸大名は趣向を凝らした鞘を作らせ、行列時には高々と掲げさせた。熊毛槍鞘は、岡山県指定重要文化財である。
恐らく藩主が被るための葵の紋の入った兜があった。
家康の直系子孫が藩主を務める親藩の誇りを示す兜である。
思えば日本の主要都市は、ほぼ全て城下町である。江戸時代に各藩の城下町として整備された町が、近代に入って都市になっていった。
津山もその様な城下町の一つである。そんな町の象徴となるものは城であり、藩主の武具であり、城下の大商家である。そのどれもが形を変えながらでも残っている津山は、幸福な町と言えるだろう。