奈義町の史跡

 菩提寺から山岳路をしばらく西に走ると、大別当城跡に登る道が見えてくる。

 登り口から北を望むと、彼方に那岐山が聳えている。

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那岐山

 那岐山は、標高1255メートルである。あの山の向こうは鳥取県だ。

 奈義山脈中には、他にも複数の山城があるが、いずれも美作菅家の主家である有元氏の居城であった。

 大別当城も、その一つである。山脈から南に張り出した大別当山上に城跡はある。大別当山は、標高584メートルで、今はそこに展望広場が設けられている。

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別当城跡登り口の碑

 登り口には、クマ出没注意の看板が立っていた。かつて和気町の天神山に登った時のことを思い出し、少し緊張したが、気を取り直して登り始めた。

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別当

 大別当山の登り口自体が、標高500メートルほどの場所にあるので、登山と言うほどのこともなく、展望広場に至った。

 広場からは、眼下に広がる奈義町扇状地を目に収めることができる。

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展望広場

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展望広場からの景色

 麓のあちこちで稲わらの焼却をおこなっていて、その煙で景色が霞んで見える。展望広場には、大別当城の説明板がある。大別当山は、南北に延びている山で、その上に連郭式の山城が築かれていた。

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別当城の見取図

 郭の間に深い堀切が掘られていた。堀切は、山城防衛のために造られた空堀のことである。

 大別当山の登山道の途中には、急なアップダウンがある。それが堀切の跡である。

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堀切跡

 高低差は5メートルはあろうか。もしここを敵が登って来たら、上から矢や鉄砲を浴びせかけたことだろう。

 大別当城跡の近くに、蛇淵の滝がある。蛇淵の滝の入口には、赤鳥居が建っている。ここにも、クマ出没注意の看板が立っていた。

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蛇淵の滝入口

 美作菅家の菅原仲頼は、ある娘と婚姻して、三穂太郎(さんぶたろう)という伝説上の巨人を生んだ。太郎は、那岐山と京都の間を三歩で移動したという。

 仲頼の妻の正体は、実は大蛇であった。正体を知られた妻は、この蛇淵の滝に姿を消したという。

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蛇淵の滝

 美作菅家は、七つの家に分家したが、宗家の有元家の祖・有元満佐と三穂太郎が後に同一視されるようになった。

 江戸時代になって、美作が津山藩森家の領国となった際、津山藩は、地元国人層の中での古くからの有力者を上位とする家格秩序を制度化し、有元家を支配体制の中に組み込んだ。

 有元家は大庄屋となって、大別当山の麓に広壮な屋敷を持った。

 有元家は、明暦元年(1655年)に火災で焼失した居宅を再建する際、池泉式の鑑賞庭園を造営した。

 今でも麓に有元家はあり、非公開ながら庭園も残されている。那岐山脈を借景として造られた庭園であるという。今は背後に森が出来て、那岐山は見えなくなっている。

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有元家庭園

 ここから西に行った奈義町成松には、諾(なぎ)神社がある。祭神は伊弉諾(いざなぎ)尊である。

 諾神社は、元々は那岐山頂に祀られていたそうだが、風雪のため破損著しく、貞観二年(860年)に麓の不老の杜に移された。大正5年に、日本原の陸軍演習場の拡張工事のため、現在地に移された。

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諾神社鳥居

 那岐山には、日本の国生みの神、伊弉諾尊伊弉冉尊が降り立ったと言われている。広島県比婆山には、伊弉冉尊の陵墓とされる塚がある。

 中国山地は、古代は出雲の勢力圏であった。

 そこに、皇室の祖とされる伊弉諾尊伊弉冉尊の二神と関連する山があるということは、この二神は元々は出雲の神だったのではないかと想像してしまう。

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拝殿

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本殿

 記紀の神話では、この二神の子である天照大御神素戔嗚尊姉弟のうち、姉が皇室の祖となり、弟の子孫が出雲の支配者になったとしている。

 大和と出雲という、古代に並び立った勢力圏を一つに結び付けるために、国生みの二神が両者の祖先とされたように思う。

 諾神社本殿の銅板葺きの屋根は、鮮やかなオレンジ色であった。オレンジ色の屋根の本殿は初めて見た。由来はよく分からない。

 神社社頭には、奈義神山之碑が建つ。

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奈義神山之碑

 この碑には、幕末の備前国学者・平賀元義が那岐山について詠んだ、「並々に思ふな子ども水尾(みずのお)の御書(みふみ)に載れる神の御山ぞ」という歌を万葉仮名で刻んでいる。

 水尾とは、京都の水尾山稜に葬られた清和天皇のことであり、御書とは、六国史日本三代実録」の中の「清和天皇紀」のことを指す。

 清和天皇は、貞観五年(863年)に、諾神社に従五位上の神階を授けた。そのことが、「清和天皇紀」に載っているという。

 清和天皇の時代にも、那岐山は神の山として崇敬されていたのだろう。

 諾神社の西方の奈義町広岡には、古墳時代後期の岡・城が端古墳の跡がある。現在は田畑が広がる丘があるのみで、古墳跡を認めることはできない。

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岡・城が端古墳のあった丘

 過去の発掘で、この古墳の横穴式石室から、「取」と箆書きされた、6世紀後半から7世紀前半に製造された須恵器の杯蓋が見つかったらしい。土器に書かれた文字としては最古期に属し、漢字の普及時期を考える上で、貴重な手がかりを与える資料であるらしい。

 私が住む播磨は、丁度大和と出雲の中間地点にある。史跡巡りをいつまで続けられるか分からないが、これから徐々に大和と出雲に近づいていくことになるだろう。同時期に大和と出雲の2つの地域を訪れたら、何か新しい発見があるかも知れない。