岡山県勝田郡奈義町高円にある高貴山菩提寺は、那岐山の中腹、標高およそ500メートルほどの場所に位置する。
菩提寺は、持統天皇の治世(686~697年)に役小角が開基したと伝えられており、往時には、七堂伽藍三十六坊が立ち並んでいたと言われている。
平安時代後期に、法然上人(幼名勢至丸)が叔父の勧覚上人の下で、9歳から13歳までをここで修行して過ごしたとされている。浄土宗では、菩提寺を「初学の地」と呼んでいる。
私も史跡巡りを始めてから、法然上人が美作国出身であることを知った。
菩提寺は、康安元年(1361年)に、伯耆国守護山名時氏によって焼き討ちされた。その後、数百年の間、寺は草堂のみを残し、荒廃するまま打ち捨てられていた。
山門から入って左手には、芒が広がる土地があるが、かつて堂塔や僧房があった場所である。
その後、地元の人々によって、寺院は少しづつ再興された。文久元年(1861年)には、京都大覚寺から、今の御本尊である十一面観世音菩薩坐像が請来された。
明治14年(1881年)には、現在の本堂が建てられた。本堂は、平成24年に全面的に修復された。
幾たびの変遷を経て、現在の菩提寺は浄土宗の寺院となっている。
本堂は、巨大な杉の木に囲まれている。本堂前の2本の広葉杉は、奈義町指定天然記念物である。
本堂の東側に、石造五輪塔が林立する場所がある。菅家武士団の墓と伝えられている。
菅家武士団というのは、菅原道真の末裔で武士になった者たちである。
承暦二年(1078年)、道真から数代後の菅原知頼は、美作守となって任国に下り、在職中に作州勝田郡で死去した。
その子真兼は、押領使となってそのまま美作に住み着き、美作菅家の祖となったという。
知頼から5代目の有元満佐を祖とする菅家七党は、南北朝、室町、戦国時代を通じて美作北東部の国人(武装した地元の豪族)として活躍した。
ところで、平安後期には、桓武平氏や村上源氏のように、臣籍降下した皇族の末裔が、地方で武士団の棟梁になったり、地方の豪族が、任国にやってきた貴族に自分の娘を嫁がせて、その貴族の子が地方に住み着いて国人になったりした。
私の好きな播磨の赤松氏も、村上源氏である源師季の子・源季房が播磨国佐用庄に配流され、地元の豪族の娘と婚姻したことから始まっている。
武士の中でリーダーシップを発揮できたのは、中央の皇族や貴族の血を引いた出自を持つ者たちであった。
以前から、なぜ平氏や源氏や足利氏や徳川氏といった武家が、無力に等しい天皇家を打倒しなかったのか議論されてきたが、彼ら自身の統治の正当性が皇室の血を引いていることにある以上、皇室を打倒することなど思いもよらないことなのである。
そして皇室の統治の正当性が、天皇が日本の神々の末裔であると古来から信じられてきたことにあると考えれば、日本という国の骨格をなしているのは、「日本書紀」の神代記ということになる。
さて、菩提寺の境内には、国指定天然記念物の菩提寺のイチョウがある。
このイチョウは、勢至丸(法然上人の幼名)が菩提寺に来る前に、麓にある幸福寺に立ち寄り、そこに生えていたイチョウの木から取った枝を杖にして菩提寺まで歩き、学業成就を願って境内に挿した杖がそのまま成長したものだという。
この菩提寺のイチョウ、驚くほどの巨木である。枝から滴るように気根が下に伸びようとしている。これが地面に付けば、そこから根付いて新たな株が出来る。
私は、イチョウの木が好きである。秋の黄葉した姿もいいが、春や夏の緑樹のころもいい。今のように、黄色い葉が散って、地面一面に散り敷いているのもいい。葉がなくなって、幹と枝だけが寒風の中に立つ冬の姿もいい。一年通していいのである。
ところで、勢至丸が、菩提寺に来る前に立ち寄って、枝を折って杖にしたというイチョウの木が、奈義町小坂の幸福寺跡に建つ阿弥陀堂にある。樹齢千年を超えるという。
平成25年に、奈義町教育委員会が、阿弥陀堂のイチョウと菩提寺のイチョウのDNAを検査したところ、同一のDNAを持っていることが分かった。
勢至丸が阿弥陀堂のイチョウの枝を杖にして菩提寺に行き、学業成就を願って境内に挿したという伝承が、強ち間違っていないことが証明された。
阿弥陀堂のイチョウの脇には、イチョウの黄色い葉に囲まれて、石造無縫塔や石塔がある。
特に無縫塔は、岡山県内に4基しか現存していない重制無縫塔の1つで、南北朝時代から室町時代前期の作だという。岡山県指定重要文化財である。
阿弥陀堂と菩提寺のイチョウの木のように、人々の歴史も時を越えて受け継がれていく。
皇族と武家の歴史しかり、法然上人の教えしかりである。我々一人一人が、後世に何事かをバトンリレーしていく存在であると思う。