諭鶴羽神社 中編

 本殿に向かって左奥には、末社の水(すい)神社がある。その左側に、建武元年(1334年)銘の五輪卒塔婆町石がある。

水神社

 水神社の祭神は、水源の守護神である弥都波能売(みづはのめ)命である。

 諭鶴羽山に降った雨は、麓の人々の生活のための水源になっている。

建武元年銘の町石

 建武元年銘の町石は、表側に梵字と年号が刻まれている。これ程古い石造品で、ここまで明瞭に銘文が読み取れるのは珍しい。

 この町石は、在銘の町石としては、兵庫県下では最も古い。

 拝殿の前には、根本から二股に分かれた親子杉がある。

親子杉

 樹木は神々の依代(よりしろ)である。巨木を前にすると、畏敬の気持ちが湧いてくる。

 ところで、諭鶴羽神社の境内や諭鶴羽山は、兵庫県下最大のアカガシの原生林に覆われている。

 このアカガシの原生林は、兵庫県の天然記念物に指定されている。

アカガシの原生林

アカガシの根

 社殿から西に行くと、神仙館という資料館があった。特別展で、このアカガシの原生林の写真などを展示していた。

 明治の神仏分離まで、ここに神仙寺という寺があったことが、館の名前の由来になっている。

神仙館

 神仙館から更に西に行くと、大日堂がある。

 諭鶴羽山は、平安時代から、神仏習合修験道の山となり、熊野修験と並ぶ諭鶴羽修験の聖地として、山上一帯に二十八宇の大伽藍が建てられ、繁栄した。

 だが、康正二年(1456年)と天文十八年(1549年)の二度の兵火により、全山焼亡し、衰微した。

 諭鶴羽権現が復活したのは、承応年間(1652~1655年)に、徳島藩主蜂須賀家が社殿を再興してからである。

大日堂

 その後明治初年の神仏分離令修験道禁止令により、諭鶴羽権現は諭鶴羽神社となり、文字通り諭鶴羽修験は消滅した。

 この大日堂は、修験者山田智泉氏が、諭鶴羽修験の復興を願い、30数年間、山中で護摩法要修行を行い、平成20年に金剛界大日如来胎蔵界大日如来を祀るお堂として建てたものである。

 私は今まで、寺院の境内に建つ神社は見たことがあるが、神社の境内に祀られた仏堂は見たことがない。

 この大日堂が、神仏習合の国、日本の復興の第一歩となることを願うばかりだ。

 更に西に行くと、奥宮十二所神社がある。

奥宮十二所神社

 ここは、熊野三山から勧請した熊野権現を祀るお社である。

 鳥居の横や、参道沿いに、昭和50年頃に発掘された町石が並んでいる。

鳥居横の町石

参道沿いの町石

奥宮十二所神社

 奥宮十二所神社に向かって右側に、天文二十一年(1552年)銘の板碑群がある。

 南あわじ市指定文化財の、多宝塔影板碑、宝剣板碑群である。

板碑群

 康正二年(1456年)の兵火で焼けた諭鶴羽権現は、美作国の城主の寄進により十八宇の伽藍が再興された。

 だがそれも、天文十八年(1549年)の兵火で焼けてしまった。

 この板碑群は、美作の住人であった乗蔵という人が、天正二十一年(1552年)に、焼けた社堂と祀られていた神仏を後世に伝えるため、石に刻んだものである。

多宝塔影板碑

天文二十一年の銘

 多宝塔影板碑には、二体の仏像も刻まれている。焼亡前の諭鶴羽権現には、二体の仏像が祀られた多宝塔があったのだろう。

刻まれた仏像

 刻まれた仏像が戴いた宝冠と、手に結んだ印からして、左側が金剛界大日如来、右側が胎蔵界大日如来だろう。

宝剣板碑群

 多宝塔影板碑の背後には、先が尖った宝剣形の宝剣板碑群がある。

 それぞれの板碑には、神仏の名前や天文二十一年の銘が刻まれている。

 この板碑を彫った乗蔵という人は、修験者として、諭鶴羽山で修業をしていた人なのではないか。

 奥宮十二所神社から、諭鶴羽古道の裏道に入る。その手前に天の浮橋遥拝所がある。

天の浮橋遥拝所

 天の浮橋は、国生みの神、伊弉諾尊伊弉冊尊が、天の沼矛(ぬぼこ)を用いて海をかき混ぜる際に、お立ちになった橋のことである。

 天の沼矛から滴り落ちた塩が重なって、淤能碁呂(おのころ)島になったという。

 二神は、淤能碁呂島に降り立って、天の御柱と八尋殿(やひろどの)を建て、天の御柱を回った後、八尋殿で交わり、日本列島の島々を生んだとされている。

沼島

 天の浮橋遥拝所からは、霞んでいるが、うっすらと沖合の沼島が見える。

 淡路島の南に浮かぶ沼島(ぬしま)は、国生み神話の淤能碁呂島の候補地の一つである。

 遥か昔、あの島の上で、伊弉諾尊伊弉冊尊が交わって、日本列島を構成する島々を生んだと想像するのは楽しい。

 今でも沼島や諭鶴羽山の上を、二神が乗った鶴が飛んでいると想像してみた。