亀岡八幡神社から南下すると、淡路南部を東西に横断する兵庫県道76号線通称南淡路水仙ラインに合流する。
県道76号線を東進し、阿万東町の玉葱畑の中を通ると、産直ねこの郷という玉葱の直売所がある。
その手前(西側)の交差点のあたりが、九蔵遺跡が発掘された場所である。
九蔵遺跡からは、縄文時代晩期の、ゴミを捨てた土坑や、飛鳥時代、奈良時代の大型建物の跡、和同開珎などが発掘された。
古代の郡司は、昔からの有力者である地域の豪族の首長が務めていた。飛鳥奈良時代には、海人族の首長がここで政務を執っていたと思われる。
ここから県道76号線を更に東進し、灘山本の集落にある灘山本交差点から北に入ると、諭鶴羽(ゆづるは)神社の境内まで至る狭い山道につながる。
諭鶴羽神社は、淡路島最高峰の諭鶴羽山(標高607.9メートル)の山頂近くにある神社である。
諭鶴羽神社は、古くは諭鶴羽権現、元熊野と呼ばれ、信仰を集めた。
熊野権現の信仰が盛んになった平安時代から中世にかけて、神仏習合の霊山として隆盛した。
諭鶴羽神社には、徒歩では、南側の灘黒岩の集落から始まる18町(1町は約109メートル)の表参道か、北側の神代浦壁にある諭鶴羽ダムから始まる28町の裏参道を利用して参拝する。
これらの参道は、参拝者に古くから利用され、諭鶴羽古道と呼ばれた。南あわじ市の史跡になっている。
鳥居前には、その諭鶴羽古道が通っている。
私は古道を歩かずに車で神社まで来たが、時間が許せばゆっくり諭鶴羽古道を歩いて参拝してもいい。
諭鶴羽古道では、神社までの距離の目印として、1町ごとに町石が置かれていた。
今では町石はなくなってしまったが、参道や境内から発掘された町石が、鳥居前や境内に置かれている。
鳥居前には、表裏どちらの参道のものか分からぬが、建武(1334~1336年)の銘のある、二町目町石が置かれていた。
町石は、五輪卒塔婆の形をしており、正面に大日如来を表す梵字が刻まれている。
中世には、ここが神仏習合の霊地であったことを示している。
諭鶴羽神社には、3種類の創建伝承が残されている。
「諭鶴羽山縁起」に書かれている伝承はこうである。
第9代開化天皇の頃、伊弉諾(いざなぎ)尊、伊弉冊(いざなみ)尊の二柱の神様が鶴の羽に乗って高天原に遊んでいた。
地元の狩人がその鶴を射ると、鶴は東の峰(諭鶴羽山)に飛び去り、そのまま山中に隠れた。
狩人が、鶴が隠れた山まで行くと、山頂にカヤの大樹があり、伊弉諾尊、伊弉冊尊の二神が日光菩薩、月光菩薩として示現し給うていた。
二神は、狩人に、「われは伊弉諾、伊弉冊である。国の安全、五穀豊穣のために、これからは諭鶴羽権現として、この山に留まる」と告げた。
狩人は涙を流して自らの非を悔い、弓矢を捨てて、地を清めて、大工を呼んで社を建て、神体を勧請した。
そして諭鶴羽権現を祀って、生涯神に仕えたという。
また別の縁起では、第10代崇神天皇の御代、西天竺の霊神が、「我が縁のある地に留まれ」と告げて、五つの剣を東に投げたという。
剣は、紀伊国熊野三山、下野国日光山、出羽国羽黒山、豊前国英彦山、淡路国諭鶴羽山に留まったという。
それぞれの山は、修験道の聖地である。
また、「熊野権現御垂迹縁起」によると、中国天台山の神霊が、九州筑紫の英彦山に降臨し、その後伊予国石鎚山に渡り、淡路国諭鶴羽山に移った後、熊野新宮、神倉山に降臨したという。
この縁起によると、諭鶴羽山は、熊野権現が熊野三山に垂迹する前に降臨した場所になる。
そのため、諭鶴羽神社は、古来から元熊野と呼ばれて尊崇された。
拝殿の前には、「淡州元熊野宮諭鶴羽宮」の碑と、紀州熊野那智大社、熊野速玉大社の宮司の参拝記念碑が建てられている。
これら3つの諭鶴羽神社の縁起は、いずれも平安時代以降の神仏習合が進んだ時期に生まれたものであろう。
面白いのは、諭鶴羽権現の出身地を、日本、中国、インドとする伝承がそれぞれ伝わっていることである。
諭鶴羽神社は、江戸時代までは、神仏習合の宮として、諭鶴羽権現を祀っていたが、明治の神仏分離令の後は、伊弉冊尊、事解男(ことさかのお)尊、速玉之男(はやたまのお)尊が祭神となった。
祭神を祀る本殿は、一間社流造で、木肌も新しいお社であった。
熊野権現(熊野大神)を祀った神社として有名なのは、出雲にある熊野大社である。
日本地図を眺めていると気が付くが、出雲の熊野大社と紀伊の熊野三山を線で結ぶと、丁度その中間に淡路がある。
この諭鶴羽神社が、出雲の熊野大社と紀伊の熊野三山に並ぶ熊野信仰の重要地点であることが理解できる。
我が史跡巡りが、いつしか出雲の熊野大社と紀伊の熊野三山に辿り着くことが出来ることを、諭鶴羽権現に祈った。