兵庫県小野市西本町にある好古館は、小野市の遺跡から発掘された出土品や、歴史資料を展示する歴史博物館である。
昭和11年に建てられた小野小学校の講堂を移築して、平成2年に開館した。
好古館の隣には、小野小学校があるが、学校の前に一柳家陣屋遺跡の石碑が建っている。
寛永十三年(1636年)、伊予西条城主一柳直盛の子直家が、伊予の2郡と加東郡内の1万石の計2万8600石を得て、小野藩の藩祖となり、敷地村に陣屋を設けた。
寛永十九年(1642年)、直家は急死したが、嗣子がいなかったので、加東郡1万石に減封された。翌年、直次が養子に入り、小野藩一柳家2代目藩主となった。
承応二年(1653年)、直次は要害地であるこの地に陣屋を移転した。
現在は、陣屋の建物は何も残っていない。小野藩一柳家は、1万石の小藩ながら、直家から11代に渡り、幕末まで小野を領した。
好古館は、鉄筋コンクリート製の重厚な建物である。
好古館には、豊臣秀吉から一柳家が拝領した黄地牡丹蓮唐草文緞子胴服が収蔵されている。名前からして華麗な安土桃山時代の衣服を想像させる。国指定重要文化財だが、拝観は出来なかった。
展示品で特筆すべきは、小野市の勝手野古墳群から発掘された装飾付須恵器である。勝手野古墳群は、小野市黍田町の山裾にあった6世紀末から7世紀前半頃に造られた古墳である。
勝手野古墳群は、山陽自動車道の工事中に発掘された。今は、その場所を高速道路と側道が通り、山裾を見ても古墳の形跡は認められない。
好古館に展示されている装飾付須恵器は、兵庫県指定文化財である。
須恵器の中央にはツバを巡らせ、その上に乗馬をしたり相撲をしたりする人々を載せている。どれも表情豊かでユーモラスだ。
古墳時代の人々も、愉快な気持ちを持つことがあったようだ。
好古館には、小野市内の広渡廃寺や浄土寺の出土品などを展示しているが、それらの展示物は、今後それらの史跡を紹介する時に説明しようと思う。
一柳家の遺物としては、陣屋の建物の上に載っていた一柳家の家紋入り鬼瓦が展示してあった。
1万石程度の小藩ながら、小野藩は教育に力を入れていたようだ。好古館前には、津和野出身の国学者大国隆正が来藩して藩士に教育した功績を記念する石碑や、小野藩出身の儒学者藤森弘庵の顕彰碑が建っている。二人とも尊王思想の持主である。幕末の小野藩は、官軍側についたが、大国の教育が与って力あったのではないか。
さて、小野市王子町の小野市役所の隣にあるのが、小野市伝統産業会館である。ここには、小野市の伝統産業である播州そろばんと小野金物の製品を展示している。
ちなみに算盤は、宋朝以降中国で使用され始め、永禄年間(1558~1570年)に毛利勘兵衛重能が明朝から日本に伝えた。毛利は、日本で初めて京で珠算道場を開いた。珠算が広まるにつれ、大津では算盤生産が拡大した。
秀吉の三木城攻めの時に、三木の住民が大津に疎開し、そこで大津そろばんの製造技術を習得して、播州に帰ってきたのが、播州で算盤が生産されるようになったきっかけであるらしい。
三木では算盤造りは発展しなかったが、天保年間から小野で発達した。
現在では算盤が使用されることは少なくなり、生産も減少しているが、それでも小野市が全国生産の7割を占めているらしい。
私は今46歳だが、私の年代以上の人なら、幼いころ珠算を習った方が多いのではないか。
小野市伝統産業会館には、様々なそろばん製品を展示している。中には、こういうものがあれば便利だと感じるものもある。中には、ほとんど遊び心で作ったとしか思えないものもある。
例えばこの数え板などは、料理屋で出した銚子の本数を数えるのに使っていたという。
現代の居酒屋などでも使えるのではないかと思う。
この両面型そろばんは、分数計算に使われたそうだが、これでどうやって分数計算をするのか想像ができない。
上の写真の真ん中の長い算盤は、213桁まで計算することが出来る。実際にそんな計算を算盤でする必要があるのか疑問だが、一種の遊び心で作ったものだろう。
小野の金物生産は、農業の副業として始まった。延享年間(1744~1748年)に大島村の又右衛門が剃刀を製造したことに始まるそうだ。その後、握り鋏、剪定鋏、ナイフが続々と生産された。
特に、明治時代に入って、一柳藩の刀鍛冶の藤原伊助が、剃刀の製造技術を使って製造した播州鎌は、切れ味鋭く、全国生産の80%を占めるまでになった。
小野市は現在、小野金物を播州刃物としてブランド化してアピールしている。
今日本各地に特産品があるが、大体江戸時代半ばから生産されるようになったものが多い。
幕藩体制下では、食糧生産だけでは藩は食っていけなくなったのである。そこで、各藩が住民に特産品の生産を奨励し、農業以外の副収入とした。地域によっては、それが今でも特産品として生産されているわけだ。
日本は時代が進むにつれて、全国が画一的になっていったが、このような地域の特色ある産業は、いつまでも残って欲しいものである。