赤峪古墳から進路を北東にとり、江戸時代の宿場町、香々美新町に赴いた。
津山藩森氏の時代に、美作津山と伯耆倉吉との間に倉吉街道が整備された。新町は、津山から倉吉街道を伝って倉吉に赴く場合の最初の宿場町であった。
江戸時代には、馬の乗り継ぎ、荷物や人足の世話をする問屋、旅籠などが軒を連ね、大層賑わっていたそうだ。
今ではその賑わいはなくなったが、昔の宿場町の面影は道沿いに残っている。
街道沿いに、新町の大庄屋中島家の屋敷跡がある。
中島家は、明治になってから自由民権運動の活動家中島衛が出た家である。
中島衛については、過去に鏡野郷土博物館の紹介記事で書いたが、美作の自由民権運動をリードし、産業振興、民権拡張、教育振興のため活動した人物である。
明治13年に郷党親睦会を結成し、国会開設請願運動を地方から始めた。明治15年には美作自由党を結成した。中島は人となり誠実にして、言えば必ず人を動かすと言われた。
しかし中島衛は、明治18年に、病のため43歳という若さで逝去した。明治23年の帝国議会の開会を見ることなくして亡くなったのである。
今も臨時国会が開かれているが、現代の日本人が当たり前のように考えている議会も、自由民権運動の広がりが開設の発端となった。
明治の自由民権運動、大正の憲政擁護運動が、今の政党政治の源流となっている。
日本の歴史には、今まで紆余曲折があったが、国民の幸せのためには、日本はこれからも自由と民権を維持する路線を取るしかないだろう。
昨今の世界情勢を見ても、自由と民権は国民の不断の努力がなければ易々と失われてしまうのが分かる。私たちは、自由の獲得のために努力した過去の先人の苦労に思いを致すべきだろう。
日本の近代史の中で、自由民権運動や憲政擁護運動は、傍流のような扱いを受けているが、これらの運動をもっとクローズアップして教えてもいいのではないか。
中島家の屋敷跡は、門扉を除いて建物は残っていない。屋敷の大黒柱には、津山城の心柱となった桂の木の残りが使用されたという。
屋敷跡には、鏡野町天然記念物の中島のモクセイという、樹齢約320年のギンモクセイがある。
モクセイの季節には、いい香りが周囲に漂うことだろう。
中島家屋敷跡から山の方に歩いて行くと、中島家の墓地がある。
中島家の墓地の手前に中島衛の墓がある。墓の前で手を合わせて頭を垂れた。
中島衛がもし今の国会を見たらどう思うだろうか。
今の国会で議員や大臣が行っている論戦を、不毛な議論と見て辟易している人も多いだろう。
だが、このような議論が全く行われずに政策が決められていく社会を想像すると、議会で議論が出来ることが、いかに貴重なことであるか理解できる。
この貴重さを認識した上で、議会は建設的な議論を行い、有権者は議論を見守るべきだろう。
中島家屋敷跡から北上すると、小さな地蔵堂がある。
毎年7月23日に近い土曜日の晩に、この地蔵尊の前に櫓を建てて地蔵踊が行われる。天正年間(1573~1591年)から始まった行事らしい。今では、鏡野町指定無形民俗文化財になっている。
天正年間と言えば、新町が宿場町になる前である。その時代から、このお地蔵さまはここに祀られ、村人や旅人を見守ってきたのだろう。
この地蔵尊から、桝形城跡への登山道が始まっている。桝形城では、天正年間に毛利と宇喜多の間で激しい戦闘があった。お地蔵さまは、その戦いの様相も見守っていたことだろう。
私は、桝形城跡への道を歩くことにした。