香々美新町の地蔵尊の脇から、桝形山への登山道が延びている。
桝形山は、標高約645メートルの秀麗な形をした山である。
桝形山の山上に、小早川隆景が築城したと伝わる桝形城跡がある。
築城時期は不明だが、毛利氏が美作に侵攻し、この一帯を制圧してから築城したものと思われる。
地蔵尊から真っ直ぐ東に歩くと、途中で道が左にカーブする。
ここから本格的な登山道になる。カーブのところに、「クマ出没注意」と書かれた立て看板がある。少々緊張しながら登り始めた。
この日はじめじめした暑さの日だった。登りながら汗が滝のように流れた。
傾斜も急で、5合目に至るまでに体力をかなり消耗した。
桝形城跡には、曲輪が10段以上連なるということだったが、登山道沿いには明確に削平された曲輪というものは少なかった。
頂上に近づくにつれ、切岸が何段にも続いているのは分かった。
途中、明瞭な堀切があった。
桝形城は、天正七年(1579年)に、美作西部に進出してきた宇喜多直家の2万の軍勢に囲まれた。
守るのは毛利方の武将福田勝昌で、城兵は僅かに500人であった。
激しい攻城戦が行われたが、福田勝昌は城を守り切った。なかなかの堅城だったようだ。
しかし、城の防御機構はそれほど目につかない。山城の防御機構は、斜面に下りなければ分からないことがある。登山でばてて、そこまでの余力はなかった。
九合目から、頂上までの最後の急な階段が始まる。
九合目のあたりに来るまでで、暑さと湿気のためにかなりへばっていたが、最後の力を振り絞って山頂まで登った。
山頂は、周囲を低い土塁に囲まれた正方形の曲輪であった。
山頂のベンチに座ってしばし休憩した。
ここから眺める景色が格別であった。
南西の鏡野町の盆地が一望できる。
ここは伯耆往来を扼する要衝の地である。毛利氏も手放したくなかったことだろう。
毛利氏が秀吉と和睦を結び、その後秀吉の天下統一が成ると共に、桝形城は必要がなくなり、廃城となったことだろう。
ここで、毛利軍と宇喜多軍の間で、城を巡る激しい戦闘が行われたわけだが、今は山頂の夏草が風に靡くのみである。
まさに芭蕉の「夏草や つわものどもが 夢の跡」である。
山頂で一息ついて、酷暑の中、山路を下りた。