智頭宿は、江戸時代に宿場町として栄えた町である。
鳥取藩池田家の参勤交代の行列が江戸に往来する際は、この町の本陣に杖を留めた。
鳥取城下から智頭宿に至れば、ここから道は二股に分かれる。現在の国道373号線を通って志戸坂峠を越えて播州姫路に向かう方面と、国道53号線を通って黒尾峠を越えて作州津山に向かう方面である。
朝廷が編纂した日本の正史とされる六国史の一つ、「日本後記」の大同三年(808年)六月の条には、「因幡国智頭郡道俣の駅馬二匹を省く」と記されている。
播磨と美作に向かう道が分かれるこの地は、古くは道俣と呼ばれ、連絡用の馬を常備する駅(うまや)が置かれた。
石谷家住宅前を東西に貫く旧智頭往来を少し西に行くと、T字路があり、そこに明治時代の道標が建っている。鳥取、津山、姫路の3方向に分岐する場所だ。
道標の南面する側には、「南 みぎ ひめじ大坂 ひだり 鳥とり」と刻まれている。ナビゲーションも地図もない徒歩の旅の時代、こんな道標を見落して方向を誤れば、数十キロ無駄に歩くことになりかねない。
それを思えば、現代はまことに至れり尽くせりの時代だ。
さて、智頭の歴史は古いようだ。平成14年の智頭病院の建設工事の際に、縄文時代の集落跡が発掘された。智頭枕田遺跡という。今は遺跡のあった場所に智頭病院が建っていて、遺跡の痕跡はない。
智頭枕田遺跡からは、11軒の竪穴住居跡と縄文土器、石棒が見つかった。西日本での縄文時代の集落跡の発掘は珍しい。古くから人が住んだ土地だったようだ。
智頭宿の東のはずれ、智頭町上市場には、黒本谷古墳がある。智頭中学校前を東に歩くと、三叉路に至るが、そこから北に登る細い道がある。
山に向かって登っていくと、突き当りに動物が集落に下りてくるのを防ぐフェンスがあるが、フェンスに設置された開閉式の扉を開けて中に入ると畑があり、畑の上に古墳がある。
黒本谷古墳は、6世紀末から7世紀初めにかけて築造された、直径約10メートルの円墳である。横穴式石室があったようだが、今は石室が崩れて巨石だけが露出している。
ここからは、金鋺や圭頭大刀、馬具、金環、管玉、須恵器などが見つかっている。当時の地元有力者の墓だろう。
智頭宿で最大の建物は、国指定重要文化財の石谷家住宅だが、この家については後日ゆるりと紹介するとして、石谷家住宅の目の前に建つ消防屯所を紹介する。
この屯所は、昭和17年に落成し、現在も智頭消防団本町分団屯所として使用されている。
屋根の上の望楼には、火災を四方に知らせる鐘が掛けられ、建物正面の梯子を登れば望楼に至ることが出来る。
この屯所は、国登録有形文化財となっており、内部は自由に見学出来る。
2階の窓からは、石谷家住宅の全貌を見下ろすことが出来る。
因幡の地は、都市化が進んでいないことから、若桜にしろ智頭にしろ用瀬にしろ、古い宿場町の面影が残っている。
古い宿場町の風情を見ると、何だか懐かしい感じがするが、交通事情の移り変わりと共に、今まで新しいと思っていた景色も懐かしいものになっていく。
昭和レトロなドライブインは、そろそろ懐かしい景色の仲間入りをしそうだが、今はやっている高速道路のサービスエリアや、郊外の大型ショッピングモールも、いずれは懐かしい景色として懐古される時が来るだろう。