城下町豊岡

 豊岡陣屋の付近には、かつて豊岡藩の家臣が住んだ武家屋敷が並んでいた。

 豊岡陣屋跡から東に行くと、豊岡藩家老石束家の屋敷跡がある。

石束家屋敷跡

 寛文九年(1669年)に、石束源五衛毎公(つねとも)の娘として、この地で生まれたのが、赤穂藩家老大石内蔵助良雄の妻となったりくである。

大石りく生誕地の碑

 りくは、天性賢明にして貞淑で、19歳にして大石良雄に嫁した。

 大石良雄の仇討の謀(はかりごと)が成るや、長男大石主税を残して、一男二女を連れて豊岡に戻り、夫の仇討の後顧の憂いを断った。

 義士が本懐を遂げた後は、剃髪して香林院と称し、夫や長男、義士たちの冥福を祈った。

 大石りくは、賢女として歴史に名を遺した。

 豊岡陣屋のあった豊岡市立図書館の北側の東西道を、図書館から西に歩くと、めぐみ調剤薬局という薬局が入った長屋がある。

濱尾新の生誕地

 この長屋は、昔から五軒長屋と呼ばれている。ここは東京大学総長や文部大臣などを務めた濱尾新が嘉永二年(1849年)に生まれた家の跡である。

 この五軒長屋の道路を挟んで向かい側に公園がある。公園に古い門が残されているが、この門は旧豊岡藩庁の門である。

豊岡藩庁の門

 公園から西に歩き、最初に右(北)に曲がる角にある民家は、京都大学名誉教授を務めた外科医で、明治24年に発生した大津事件で負傷したロシア皇太子の救急処置をした猪子止戈之助(いのこしかのすけ)が、万延元年(1860年)に生まれた家の跡である。

猪子止戈之助生誕地跡

 ここから北上すると四つ角があるが、その南西角には煉瓦塀に囲まれた一角がある。

河本重次郎邸跡

 ここは、日本近代眼科の父と呼ばれ、東大に眼科学教室を創設した河本重次郎の邸跡である。

 河本重次郎は、安政六年(1859年)にこの地で生まれた。

 煉瓦塀内の民家は、今は河本家と無関係の方が住んでいるようだ。煉瓦塀だけが、当時の面影を残している。

 四つ角から西に歩くと、豊岡市教育会館があるが、その西隣に明治時代に中央の教育行政に携わり、文部大臣を務めた久保田譲の邸宅跡がある。

久保田譲邸跡

久保田譲邸跡の石碑

 久保田譲は、弘化四年(1847年)にこの地で生まれた。

 このように、明治日本の医学や教育を支えた人材が、数多く豊岡藩から育った。

 幕末の豊岡藩から、このように優秀な人材が輩出されたのは、藩校稽古堂の教育にあると言われている。

 稽古堂には、但馬聖人と呼ばれた陽明学者池田草庵もやってきて講義をした。

 教育は国家の礎である。

 さて、豊岡市街の西にある豊岡市高屋には、承久の乱で敗れた後鳥羽上皇の皇子、雅成親王の墓がある。

雅成親王の墓への階段

 高屋の民家の間に、墓所に登る階段がある。そこを登っていくと、石柱に囲まれた宝篋印塔がある。ここが雅成親王の墓である。

 皇族の墓であるため、宮内庁が管理している。

雅成親王の墓

 雅成親王は、正治二年(1200年)に後鳥羽上皇の皇子として生まれた。兄に土御門天皇順徳天皇がいる。

 承久三年(1221年)の承久の乱で、朝廷が鎌倉幕府に敗れると、雅成親王は但馬に配流となる。親王22歳の時である。

 雅成親王は、建長七年(1255年)にこの地で死去するまでの34年間、但馬守護太田昌明の監視下で不遇な生活を送る。

 雅成親王の墓の南方約200メートルの山際に、雅成親王が過ごした黒木御所の跡がある。

黒木御所跡

黒木御所跡の石碑

 雅成親王は、「続後撰和歌集」に「つひにゆく 道よりもけに かなしきは 命のうちの 別れなりけり」という歌を残している。

 これは在原業平の辞世の歌、「つひにゆく 道とはかねて 聞きしかど きのふけふとは 思わざりしを」の本歌取りである。

 業平のこの歌は有名で、「伊勢物語」の最後に書いてある歌である。私も将来自分が死ぬ時には、この歌を口ずさむだろうと思っている。

 歌意は、人が最後に必ず行くという死出の道があるとはかねてから聞いていたが、昨日今日にそれが来るとは思いもしなかった、というものである。

 雅成親王は、業平の歌を踏まえ、人が最後に行くという死出の道よりもはるかに悲しいのは、生きている間に別れを迎えることだった、という歌を詠った。
 確かに業平は悲しみを覚えながらも旅に生きたが、親王は旅をすることも能わなかった。

 雅成親王の悲哀を感じていると、もう日が沈もうとしていた。