鳥取市用瀬(もちがせ)町用瀬は、江戸時代には宿場町であった。
用瀬宿は、智頭宿から鳥取城に向かった場合の次の宿場町である。当時の戸数は約280戸、人口は約1000人を数えたという。
本陣、牢屋、制札場が設けられ、十数匹の駅馬も用意されていた。
用瀬の町の中央を通るのは、旧智頭街道であるが、町の北のはずれに鳥取藩が設置した番所跡がある。
用瀬の番所が設置されたのは、割合に新しく、慶応元年(1865年)である。藩士6人、下番4人が配置され、通行人やその荷物の検査を行っていた。番所は明治4年11月まで置かれていたそうだ。
句碑には、「夏来ても ただ一つ葉の 一つかな」という句が刻まれている。
一つ葉は、多年生常緑草でシダ類の一種である。地面から葉が一枚だけ生えるので、この名がある。
夏が来て草木が密生しているのに、一つ葉だけは一つのままであることに、もののあわれを感じた芭蕉の感懐が表れている。
この句碑は寛政九年(1797年)に建てられたものである。
用瀬は、茶所としても有名だったそうだ。茶を扱う商人の中で、蕉風の俳諧を嗜む有志が建てたものだろう。
中町には、参勤交代の時に藩主が下馬して通過したと伝えられる浄土宗の寺院、法雲山大善寺がある。
この寺は、豊臣政権の時代に、西日本に浄土宗を広めた武蔵国川越の蓮馨寺の住職・二世文應が開基したという。
一の谷には、素戔嗚尊を祀る東井(とうい)神社がある。
東井神社は、天暦年中(947~957年)に京の八坂神社(当時の祇園社)から素戔嗚尊をこの地に勧請し、妙見大明神と称したことに始まる。
天正年間(1573~1593年)に社殿が焼失したが、その後再建され、江戸時代には智頭郡における大社で、藩の祈願所であった。
明治元年、近くの六社を合祀し、東井神社と改称した。
明治5年、藩校尚徳館に祀られていた神社の社殿が東井神社に移築された。
凛とした立派な本殿だ。東井神社本殿は用瀬町指定文化財である。
いい神社に参拝すると、気持ちが引き締まる思いがする。
新用瀬橋東詰から南下すると変電所があるが、その側に二基の石碑がある。
かつての一里塚の跡であるという。
一里塚とは、江戸時代に街道沿いに一里毎に築かれた塚のことで、旅人が旅路の目安にしたものである。
二基の石碑のうち、向かって右側は「南無妙法蓮華経」と刻まれた石碑である。
左側の石碑には、役行者の像と「大峯三十三度供養」という文字が刻まれている。
大峯山で修験行者を先導する資格を持つ行者を大先達と言うが、その大先達の資格を得た記念に建てられた石碑であるらしい。
文化文政年間(1804~1830年)には、この地方では大峯信仰が盛んだった。
江戸時代には、各地に関所や番所が設けられ、人々の移動は厳しく制限されていたが、山伏は自由に国内を移動出来たそうだ。
因幡、伯耆は修験道が盛んな地域だが、この地からも多くの行者が聖地大峯山を目指したことだろう。
一里塚の跡の前には、江戸時代に千代川の渡し場だった、古用瀬の渡しの跡がある。
旅人や参勤交代の行列も、ここで川を渡ったのだろうか。
旧宿場町は、狭い区域に多くの史跡があって、町の歴史を追いやすい。時間が圧搾されている感じがする。