大書院の西側には、篠山城の歴史についての資料やゆかりの品を展示した史料館が建っている。史料館は当時を彷彿とさせる木造瓦葺建築である。
篠山藩は、当初松平三家と呼ばれる三つの松平家が藩主を務め、その後譜代大名の青山家が藩主となって明治維新を迎えた。
最初藩主の松平家は、松井という姓であったが、家康に戦功を認められ、松平姓を与えられた。
松井松平家の次に藩主となった松平家(藤井)、松平家(形原)は、三河出身の松平家の庶流で、徳川家の出自である松平惣家の縁戚にあたる。
出身地の地名から、藤井、形原を名乗った。
青山家は、上野国青山郷の出身で、松平(徳川)家に仕えるために三河に遷った。
寛延元年(1748年)から篠山藩主となった青山家は、学問を重んじ、藩士の教育に力を入れたが、国文学の物語、和歌、俳諧の文書や、漢籍、歴史、地誌に関する書物を収集した。
青山藩が収集した書籍は、現在は青山歴史村に移築された桂園舎に保管されている。
篠山のどことなく気品のある街並みは、青山家の教養と青山家が力を入れた教育の影響を受けているのではないか。
資料館から大書院に入る。大書院には九つの部屋があり、その周囲を広縁が巡っている。
大書院内で最も広い虎の間と手鞠の間には、地元の甲冑研究家が趣味で自作した戦国時代の著名大名の甲冑がずらりと並んでいる。
最奥には、宿敵同士だった武田信玄と織田信長の甲冑が並んでいる。
大坂夏の陣で生死をかけて相まみえた真田幸村と徳川家康の甲冑もある。
死んだ諸大名が生前の戦いを忘れて一堂に会したような奇観だ。
その隣の源氏の間には、縮尺10分の1で再現された、大書院の全体の3分の1を制作した構造模型が展示してある。
大書院再建工事に先立って、化粧材(見えている木材)と野物材(見えていない木材)がどのように組み合わされているのか、立体的、視覚的に把握出来るよう、熟練した宮大工2名が4か月かけて製作した模型らしい。
この模型の前には、発掘された大書院の鬼瓦が展示してある。
隣の葡萄の間には、江戸時代後期の狩野派の絵師・狩野養川が描いた草花小禽図屏風が展示されている。
よく描かれた鳥や草花の絵を眺めて、いいなあと思えるようになってきたのは、年を取った証拠か。
広縁には、かつて篠山城の道場に掛けられていた梵鐘が展示されている。
この梵鐘は、四代藩主・松平(形原)康信が、二世安楽を願い、寛文十二年(1672年)に鋳造したものである。
その後、この梵鐘は、京都の新熊野権現社や蓮華寺に移されて大切に保管されていたが、昭和58年に多くの人々の尽力により、篠山城跡に戻って来た。
本来あるべき場所に戻った梵鐘は、どこか満足気であった。
虎の間東側の孔雀の間には、再現された篠山藩主青山家の甲冑と、孔雀の絵の掛け軸が飾られていた。
大書院の奥にある上段の間と次の間は、藩主と家臣が臨場して藩の行事が行われた場所であろう。
上段の間と次の間の障壁画は、当時の様子を再現するため、江戸時代初期の狩野派絵師が描いた屏風絵を転用して制作された。
障壁画の保護のため、フラッシュを焚いての写真撮影が禁止されていたので、どうしても薄暗い写真になる。
大床の老松図の前には、藩主が座った。長寿の象徴である老松は、藩の永遠を願って描かれたものだろう。
上段の間の天袋には花卉図が描かれ、違い棚の背景には松竹梅雉子図、帳台構には牡丹図が描かれている。
上段の間から一段下がった次の間は、藩主に伺候する家臣が控えた間だろう。
次の間の奥にある板襖は、篠山城二の丸御殿で使われたものと伝えられている。表面に牡丹図、裏面に檜に鷹図が描かれていて、江戸時代後期狩野派絵師の手によるという。
次の間の四面の襖には、籬に菊図が描かれている。
上段の間に座った藩主からは、家臣たちの背後にこの籬に菊図が見えたことだろう。
お城の御殿建築の障壁画を見て、武装集団である武家の首脳部が集まるこうした部屋に、いかにも優し気な植物の絵が描かれているのは、不思議に思うが、植物や野鳥に安らぎを感じる日本人の心性を表わしているのではないかと思う。
もし日本列島が乾燥した砂漠と山岳の島だったら、日本の文化は余程変わったものになっていただろう。
季節に変化があり、植生が豊かな日本列島のありがたさが、こういうところにも現れている。