旧足守藩侍屋敷遺構 前編

 藤田千年治邸の見学を終え、足守の町の北側の武家が住んだエリアに行く。

 次に見学したのは、旧足守藩侍屋敷遺構である。足守藩家老杉原家の居宅跡である。

 ここは、江戸時代の藩の家老屋敷の佇まいをほぼ完全に残している貴重な遺構である。

足守藩侍屋敷遺構

 旧足守藩侍屋敷遺構は、本町通に面しているが、通りに面してなまこ壁を有する長屋門がある。

長屋門

 長屋門の左右には部屋がある。向かって右には6畳の茶室、左には6畳の中間部屋がある。

 ところで、史跡巡りをしていて気づいたことがある。古い商家は現代の日本に多く残っているが、武家屋敷はあまり残っていない。

 これは、何故なのだろう。

足守藩侍屋敷遺構の空撮写真

足守藩侍屋敷遺構間取図

 明治時代になっても、商家はそのまま商売を続けることが出来たので、店を維持することが出来た。

 武士はというと、幕府や藩が消滅したことにより、途端に生活の途を絶たれた。

 武士の多くは官吏に仕官したことだろう。官吏になるため、東京に移住した者も多かっただろう。

 うまく就職できたとしても、武士だった頃より収入は下がった筈だ。

 多くの武家屋敷は、不要になったか、維持できなくなって取り壊されたことだろう。

土蔵と東門

東門

 現代人の感覚からすれば、武家屋敷は物珍しいが、明治を迎えた人たちにとっては、珍しくもなんともなく、むしろ不快な旧支配階級の住家にしか見えなかったことだろう。壊すことに何の抵抗もなかったことだろう。

 明治に入って各地の城も取り壊された。現代から考えると、勿体ないと思うが、当時の人からすれば、城は古くなった県庁舎や市庁舎のようなもので、何の思い入れもないものだったろう。

藩主来訪時に使用された御成門

御成門に刻まれた木下家の家紋

 明治に入って武家屋敷や城が次々と取り壊されたのは、このような感覚からだろう。

 歴史を知るには、当時の人の視点に立たなければ真相が見えてこない。現代人には理解がし難いことでも、当時の人の視点に立てば、理解することが出来る。

 この侍屋敷には、長屋門、東門、御成門の3つの出入口がある。御成門は、藩主が来た時にのみ使われた。

 長屋門から入ると、正面に母屋がある。

母屋

 母屋は、茅葺寄棟造平屋建の建物で、桁行十二間半、梁間五間と、南北に長い造りである。

 母屋の中央に、唐破風の屋根を備えた玄関がある。

唐破風屋根の付いた玄関

 江戸時代の玄関は、身分の高い者しか出入り出来なかった。言わば公的な出入口である。

 玄関に入ってすぐの部屋は、式台の間と呼ばれている。

式台の間

 この式台の間の奥には、侍屋敷には必ずある二畳の仏間がある。丁度母屋の中央に位置する。

 式台の間は、自刃の時に使われる部屋である。そのため、柱が天地逆の逆目になっているという。

 家の主人が自刃することを前提に建てられる建物とは、今の感覚からすれば、不思議なものである。

 長屋門から入って右手にある中門を潜ると庭がある。

中門

 庭に面して、一の間と二の間がある。

一の間と二の間

 一の間は、床と付け書院を設けた格式の高い部屋で、訪問した藩主を通した部屋である。

 二の間は13畳ある広い部屋で、藩主に雇随した家臣たちが詰めた部屋であろう。

 一の間と二の間の間の欄間は、珍しい香図組欄間である。

一の間

二の間

 一の間に掛けられた「雲鶴」の書は、第11代藩主木下利徳候のものである。

 一の間の付け書院には、華頭窓が設けられ、窓の外には緑が見える。

 まるで禅寺のようだ。

華頭窓

 一の間の裏側から見ると、一の間の前に広がる庭が目に入る。

一の間の前に広がる庭

 足守藩は小藩である。藩主と家臣の間も、大藩と比べて睦まじかったのではなかろうか。

 一の間に迎えられた藩主と家老が、この部屋で庭を眺めながら談笑した情景が思い浮かんだ。