三成古墳から西に向かい、岡山県津山市中北上に聳える岩屋山(標高約483メートル)の山上にある岩屋城跡に向かった。
岩屋川沿いに細い道を北上すると、谷間に登山者用の駐車場がある。そこに車をとめ、歩き始めた。
岩屋城は、嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱に際し、播磨、備前、美作三国の守護だった赤松満祐の討伐に貢献し、美作守護の地位を得た山名教清が同年に築城したとされる。
その後、応仁の乱に乗じて旧領地の回復を目指した赤松政則が山名氏の手から奪還した。
文明五年(1472年)には政則は美作国守護に任じられた。岩屋城は再び赤松氏の配下に入った。
永正十七年(1520年)には、備前三石城に拠る浦上村宗が赤松氏に対して謀反を起こし、岩屋城を攻略した。
天文十三年(1544年)には、尼子国久が岩屋城を攻略する。
永禄十一年(1568年)には、浦上氏に代わって勢力を伸ばしてきた宇喜多直家が謀略により岩屋城を接収する。
その翌年から、宇喜多氏が再び岩屋城を攻め、最終的に宇喜多氏の手に落ちた。
天正十八年(1590年)に野火により城は焼失し、廃城となった。
こうして見ると、この城を巡って度重なる争奪戦が行われてきたことが分かる。ここが出雲街道を扼する重要地だからだろうか。
登山口には、いつの頃のものか分らぬが、戦没者を供養する小さな供養塔が建っていた。
登山道は整備されていて登りやすい。途中、かなり急な階段が続く箇所があり、汗が出てくる。
しばらく行くと、慈悲門寺下砦跡が見えてくる。
かつて岩屋山中腹には、天台宗の高僧、智証大師円珍(814~891年)が開創した慈悲門寺という寺院があったそうだ。
岩屋城廃城と同時に廃寺になったという。合戦の際は、寺周辺は砦としても使用されていたようである。
砦跡の上に慈悲門寺跡とされる削平地がある。
慈悲門寺跡の本堂跡には、建物の礎石が集められている。
また、礎石の上には、かつて寺院の屋根に葺かれていた瓦が置かれている。
円珍は、天台宗の密教化に貢献した僧侶である。平安時代には、岩屋山は、山岳寺院を擁する修行の山だったのだろう。
しばらく歩くと、山王宮拝殿跡がある。
山王宮は、慈悲門寺の鎮守として、この先の岩窟内に祀られた。
祭神は、大山咋(おおやまくい)命こと山王大権現である。山王大権現は、比叡山延暦寺の鎮守、日吉大社の祭神でもある。山の神様と密教の関係は深い。
岩窟への道が険しく危険であったため、一般の参拝者はこの拝殿跡の地から山王宮を参拝したという。
山王宮は、明治44年に郷社鶴坂神社に合祀されたが、今でも氏子たちは山王神社として、岩窟の中に小さな祠を建ててお祀りしている。
拝殿跡から望むと、約200メートル先に岩窟と祠があるのが見える。
山王神社までの道は、崖に沿った細い道である。足を踏み外すと滑落しそうだ。
一歩一歩踏みしめながら進み、山王神社の前に至った。
山王神社のある岩窟は、手作業で掘ったと思われる痕がある、時代を感じさせる岩窟である。
明治時代には、この岩窟一杯に社殿が設えてあったらしい。
小祠に手を合わせ、岩窟の前を立ち去ろうとした時、不思議と胸の中に不動明王の像が浮かんできた。
思い過ごしかも分からないが、それ以降なぜだかやたらお経を読みたくなるようになった。
以前、数珠を持って山中の祠を巡拝している時、気分が高揚するのを覚えた。行者として山中を歩くことが、私が元々やりたかったことなのかも知れない。
史跡巡りを続けていると、今まで気づかなかった自分の一面が見えてくることがある。
私は、「水到りて渠成る」という言葉を座右の銘にしている。水が流れるとそこに自然と溝が出来るという意味で、何事も行動を起こせば結果が付いてくるということを指している。
史跡巡りを続ければ、知らず知らず何事かが成って行くかもしれないと、楽観的に考えている。