山王神社の参拝を済ませて、更に登り続けると、大手門跡が現れる。
ここが城の正面である。大手門跡を過ぎると水門跡がある。
水門跡を過ぎて更に進むと、水神宮がある。
水神宮は、龍神池の池中に祀られている神様で、祭神は弥都波能売(みつはのめ)神である。
嘉吉元年(1441年)に山名教清が岩屋城を築城した際、龍神池を作って、そこに伯耆大山の赤松池に祀られていた弥都波能売神を勧請し、城の鎮守として祀ったものである。
龍神池は、籠城戦の際は城兵の飲み水としても利用された。
水神宮の拝殿にはベンチが置いていて、丁度いい休憩場所になっている。
しばし休んでさらに登った。
しばらく歩くと、四本の大杉に囲まれるようにして小さな祠が立ち、その手前に井戸が掘られていた。
巨木と祠と井戸の組み合わせからは、不思議な力を感じる。
籠城戦になると、城に立て籠もる兵士からすれば、水は貴重品である。こうした井戸から取られた水が、多くの城兵の喉を潤したことだろう。
この井戸からしばらく行くと、本丸跡周辺の遺構に到達する。
特に馬場跡と呼ばれる長さ約108メートル、幅約20メートルの曲輪は、本丸付近の曲輪の中では最大のものである。
馬場跡の南端には鳥居が建っている。天空の鳥居と呼ばれている。ここに神社があるわけではない。この鳥居は、神社と関係なしに建っているものである。
この鳥居のある場所からは、津山市街に至る城の南東側の景色がよく見える。
馬場跡から本丸跡方面に歩いていく。
本丸跡周辺は、桜が開花している。桜は既に散り始め、枝に葉が出始めている。
毎年桜を見ると、「ああ今年も生きて桜を見ることが出来た」と思う。昨年は淡路で桜を見た。今年は美作で桜に会った。美しい桜を見ると、心が洗われる思いになる。
本丸跡は、岩屋山の頂上を削平して築かれた曲輪で、長さ約60メートル、幅約20メートルの楕円形の曲輪である。
本丸跡に登ると、本当に真っ平に削平されているのが分る。
本丸跡からは、城の四囲を見回すことが出来る。先ほど歩いた馬場跡も視界に入る。
本丸跡からは、特に西側の真庭市方面の眺望がいい。
本丸跡の北側は、峻険な断崖絶壁である。ほとんど垂直の絶壁で、落とし雪隠と呼ばれていた。
天正九年(1581年)の毛利氏による岩屋城攻めの際、毛利方の武将中村大炊介頼宗は、決死の士32名を選び、風雨の夜にこの落とし雪隠をよじ登らせた。
決死隊は落とし雪隠を登りきって城内に突入し、城に火を放った。大手門側から攻め寄せた寄せ手と呼応して攻撃し、ついに堅固な岩屋城を陥落させた。
守りが堅固だと過信すると、逆にそこが弱点になるといういい事例である。
岩屋城は、築城されてから廃城になるまでの約150年の間に、血で血を洗う攻城戦を何度も経験した。
今ではそんな歴史があったことを忘れさせるように、美しい桜が咲いている。
今は長閑なこの場所を巡って、過去には血みどろになって戦った人々がいたことを思うと、人の世の無常が思われる。