富地域から東進し、国道179号線に出て北上する。
岡山県苫田郡鏡野町女原の集落が近づくと、目前に標高約515メートルの西屋城跡が見えてくる。
西屋城跡の築城年代は定かではない。天正年間(1573~1592年)には、宇喜多直家に攻略され、苔口利長が城主になった。
毛利輝元が葛下城主中村頼宗に命じて攻撃させたが、陥落しなかった。
天正十年(1582年)に再度毛利勢に攻撃され、落城したという。
西屋城跡の東南側の麓に、泉神社という神社がある。この神社の西側に、登山口がある。
登山口手前の日陰の部分にはまだ雪が残っていた。さきほどの鍛冶屋谷たたら遺跡で靴の中まで水が浸み込んできたが、ここでまた、ところどころに雪が残った中を登ることになった。
考えてみれば、葛下城跡、小田草城跡に続いて、この日3度目の山城への登城である。
今まで史跡巡りをしてきて、1日に3つの山城に登ったのは、今回が初めてである。寒い時期だからできることだろう。暑い季節では体力がもたない。
西屋城跡の登山道は、幅が広く、雪がなければ歩きやすいだろう。
途中、所々に「西屋城跡登山道」と書かれた標識が立っているので、分かりやすい。
雪上に動物の足跡が残っていたが、どう見てもクマのものとしか思えない足跡があった。ちょっと緊張する。
歩きやすいと思って進むと、登山道が途中で行き止まりになった。上を見ると、曲輪上に雪が積もっていて、段々になった曲輪が明瞭に見て取れた。
行き止まりの道から戻って、上を見上げると、遠くに登山道を示す標識が見えた。
積雪のせいで、道が見えなくなっていた。雪を踏みしめながら登っていく。
しばらく行くと、二の丸跡の切岸が見えてきた。
二の丸跡の曲輪に上がると、ここが中々の広さの曲輪であった。城跡の東側に位置する。
二の丸跡の西側に本丸跡があるが、その間は少し低い尾根になっている。
この尾根から下山道が始まっている。
尾根を西に歩くと、本丸跡の切岸が見えてくる。
この本丸跡の切岸が結構急であった。苦労して登ると、南北に伸びた本丸跡の曲輪があった。
本丸跡の曲輪の北端から北方を見ると、冠雪した1000メートル級の中国山地の山々が眺められる。あの先に鳥取県がある。
息をのむ眺望とはこのことだ。自然界への畏敬の念が沸いた。
曲輪を南に向けて歩くと、更に一段高くなった曲輪があり、アンテナ柱が建っている。
ここが、城跡の最高部である。
最高部からは、南西方向の眺望が開けている。日が傾きかけている。
さて、本丸跡からの眺望に満足して下山する。
途中、段々になった曲輪群を見ることが出来た。積雪のおかげで、写真でも曲輪を明瞭に認識できる。
西屋城跡は、雄大な遺構を持った城跡だと思うが、もう少し暖かい季節に来たら、より楽しむことが出来るだろう。
私は山を下りて、城跡の麓にある西屋城落城に関する史跡に向かった。